また失敗した。これで何度目だろうか。募るイライラにも自分の不器用さにもいい加減我慢の限界だ。蓋を開けっ放しの除光液をコットンに染み込ませると失敗したマニキュアを落とした。コットンをゴミ箱に向かって投げたら見事に外れる。小さく舌打ちして、ローテーブルにマニキュアを置いてソファにごろんと横になった。いつもこうだ、何かをしようとして空回る。しかもそれのほとんどが一人のせいなのだから腹立たしいにもほどがある。
「こら、ちゃんとゴミ捨てろよ」
「…フランス」
頭の上から後ろから覗きこむ様にしてきた私を腹立たせる張本人、フランスは一部始終を見ていたらしい。夕飯の支度をしていたようで、シャツを肘くらいまで捲くってエプロンをしている。私のせいで座る場所がないフランスはエプロンをソファの背もたれにかけてからそのまま床に座り込んだ。
「で、何に苛々してるのかな〜?」
「…うるさい」
ぐるんと体を回転させてソファの背もたれに顔を押しつけた。ついでに両手を胸の前に持ってきてフランスから見えないようにする。そんな私の様子にフランスは慣れてしまっているせいかいちいちご機嫌取りをしたりだとかは絶対にしない。どちらかと言えば馬鹿にするのを楽しんでいる。
「これか」
ローテーブルに出しっぱなしだったマニキュアを発見したらしくそう呟く声がした。その声を背を向けたまま無視した。フランスの大きな手が私の右の二の腕を掴んだ。そのまま引っ張られて体が上を向く。睨みつけるように視線を送ったら、にやにやと笑っていると思ったのに優しく笑っていたものだから何も言えなかった。私はこの表情にどうも弱いらしい。
「お兄さんに貸してみな」
「…きもい」
「傷付くよ〜?事実だけに」
自分で笑いながらフランスは私の手をそっと取る。爪からはみ出て皮膚についたマニキュアがちゃんと落ちていなかったようで彼は呆れたようにため息をついた。一番ため息をつきたいのは私だ。お姫様の手を取るように私の手を自分の手の上に乗せたフランスは片手で器用にマニキュアの蓋を回し開けた。
「じっとしてろよ?」
「……」
「拗ねんなよ」
からかうように笑いながらそう言った。私より遥かに器用なフランスは私の爪にマニキュアを塗り始めた。ちらりと横目で見ればこんな簡単なことがどうしてできないのだろうと自分で不思議に思うくらいにてきぱきと塗られて行く。ただただされるがままになりながらも、私をこうやってからかっている時も、怒っている時も、ご機嫌がいい時も、どんな時も私の手を取るフランスの手がどこまでも優しくて、悔しいけれど言うならば、「おうじさま」という表現が一番ぴったりであることに少し頬が熱を持つのがわかった。彼がいくら慣れた手つきでそれをしようが、それを何回されようがハジメテの時と同じくらい私はドキドキするのだ。
「ほら、できたからもう片方」
「……」
「お前ね…まあいいけど」
ぐるりとフランスの方を向くのではなくうつ伏せになって塗られていない方の手をぐい、と差し出した私にフランスが苦笑した。表情を見たわけではないが、その声で十二分にわかる。爪に丁寧に、それでいてテキパキと塗られていくのがよくわかる。フランスは何でもソツなくこなすし、何よりも器用だ。傍から見ればフランスが私を追いかけているような関係に見えるのかもしれないが、実際は逆だ。余裕があるのはいつもフランスで、私はそれに見合う努力をしようとして失敗する。
「ていうかお前黒ってなんでまたこんな色」
「別にいいでしょ」
「何怒ってんだよ」
「怒ってない〜!」
「はいはい、そうですか」
この間見た映画に出てきた女優が黒にしていて、フランスが「赤よりもこっちのがセクシーだな」とかなんとか言いながら鼻の下を伸ばしていたからとはいくら厳しい拷問を受けたとしても私は言わないだろう。フランスに追いつきたくて必死で小さな努力すらこんな風に空回りして、いつかは気持ちさえも空回りし始めるのではないかと私は不安でいっぱいなのだ。せめて可愛く振舞うべきだろうか。ソファにこれでもかとばかりに顔を押しつけながら色々なことを考えてもそれが全部フランスに関係していることで笑えた。
「はい、できましたよお嬢さん」
「うん…」
「まだ乾いてないからどっかにぶつけちゃダメよ?」
「うん…」
「気のない返事だな」
フランスの手が私の頭を撫でる。可愛く振舞うなんて今更できないことだし、フランスが爆笑するのは目に見えている。それに、自惚れているようだがフランスは今の私を好きと言ってくれている訳で、変に今更性格を変えても仕方がない。だからこそ見た目を変えようとしたというのに。両手を広げてソファにうつぶせになっている私は大層不格好だろう。間抜けという表現がぴったりに違いない。
「おっと」
タイミングよくキッチンからタイマーのベルの音がしてフランスの手が私から離れる。準備できたら呼ぶ、という彼の言葉に顔をソファに押し付けたまま返事をした。最初の頃よりも段々と恋人としての余裕がなくなってきているのは、フランスのことが以前よりも何倍も何倍も、乗算するように好きになってきているからだ。その分失うのが怖くなる。愛されているという実感はあっても、それは不確かなもので目に見える何かが欲しいのだ。我儘で子供っぽい言い分だということはわかっている。それでもだ。
「できたぞ〜」
遠くからフランスの声が聞こえて、私はようやく体を起こした。ずっと顔を押しつけていたせいで周りが無駄に明るく見える。ぱちぱちと瞼を動かしながら、さっきフランスが塗ってくれた爪を見る。全くと言っていいほどはみ出てないし、私が思い描いた通りに塗られている。
「…」
塗られてはいる。のだが。
「早くしろよ〜」
良い匂いのする方向、フランスがいるダイニングへと私の足は向かう。ダイニングテーブルの上に湯気ののぼる皿を並べるフランスは私と目が合うとそそくさと椅子を引く。そこに座って振り返って後ろにいるフランスを見る。
「なんでここだけ赤?」
「んー?」
爪が見えるように手を上げる。あの映画の中の女優のように綺麗に黒で彩られている中、一つだけ真っ赤に塗られていた。私の前にナイフとフォークを置きながらフランスは言う。
「誰かさんがいきなり色気付くから予約しとこうと思って」
「…色気付くって何それ」
「先週エステ行ったのも、最近雑誌を読みこんでるのも、香水変えたのも、なんでなのかね」
「…それは…なんでもない」
「それは?」
「…言わない」
全部フランスのためとここで言えるほど素直な女ではない。ふふ、とフランスが後ろで笑う。他の誰かに心移りしているだとかいう発想には至らないだろう。彼が笑ったのはきっと私がふいっと視線を逸らしたからだ。そして私の顔は赤くなっている。
「さて、食べようか」
「…うん」
赤く塗られた爪をちらりと横目で見て、言われる前から少しは勘付いていた「予約」の意味を理解していつの間にか胸のつかえが取れていた。