丁度いい日差しのある日の午後、珍しく出来た空き時間を使って僕はいつものように資料室へ来ていた。次は座学であったから、その予習も兼ねて。資料室は、普段あまり使われていない物置小屋のようで人の出入りも少ない。よって、自分の時間に没頭できる最高の環境だ。僕はいつも、万が一誰かが来ても邪魔されないように一番奥の、隅のほうの少し古い長机と椅子を借りている。そして今日も、そこへ座る。座学が唯一できることであるから、予習復習は欠かせない。ぺらぺらとページをめくる音。かりかりと文字を書く音、たまにつく僕のため息だけがこの閑散とした空間での音だった。


どれほどやっただろうか、不意に、遠くの方でぱたぱたと足音が聞こえた。そしてすぐに、扉が開く音。資料室へ訪れる人物は先述した通り少ないので、ある程度特定はできる。ちょうどこの空き時間、みんなが各々余暇を楽しむなか、こんな資料室へ足を運ぶもの好きは…



「アルミン!」

「やっぱり名前か、どうしたの?」


「外の話を聞きにきたの」


やはり彼女、名前だ。苗字名前、彼女は僕達訓練兵のなかで最も珍しい東洋人だ。僕達の幼なじみ、ミカサと同じ。黒々としたストレートの髪を肩下ほどまで伸ばして、きらきらした瞳でいつも周りを飽きさせない子だ。良くも悪くも、ミカサとは正反対である。彼女は持ち前の好奇心と探究心で、今日も僕の話を聞きに来たらしい。外の世界、つまり、あの壁の向こう。どんな世界が広がっているかなんて僕も見たことはないし、それこそ本の記述だけだけれど、名前はよくその話を聞きたがる。塀の向こう側なんて、ほとんどの人は希望を持っていないのに。僕の周りで唯一、彼女だけが僕の話をとても熱心に、楽しそうに、その瞳を輝かせてうんうんと聞いてくれるのだ。彼女はいつも言う。「世の中、絶望だけじゃないと思うの。外の世界は、きっと素敵だわ。」彼女はそういう人だった。


「ねえ、今日はどんなお話?」

「そうだなあ、海の話はしたよね?」

「うん!ひろーい池で、青くて、とてもきらきらしているのよね」

「うん、きっとそうだよ。そこにはきっと、いろんな生き物が住んでいて、人間以外にも沢山いるはずなんだ」


いつものように、たわいない話で盛り上がる。海なんて、みんなあるわけないって馬鹿にするけれど、名前はまったく疑わずに信じている。かくいう、僕も。
僕達以外の生き物、それはケモノだったり、サカナだったり、それ以外のなにか別の生物。見たこともないような生物が、息を潜めて住んでいる。僕はそう確信していた。名前はやっぱり嬉しそうに、「素敵ね、見てみたいわ」と笑った。以前1度だけ登った壁の上から見た景色は、見渡すかぎり鬱蒼と茂った木々だった。ほんとうに、見渡すかぎり。僕はその光景に正直落胆したけれど、その時だって彼女はにこやかに言うのだった。「この先に、海があるのね」


「アルミン、わたし、調査兵団に入るの」


突然告げられた言葉。探究心がめっぽう強い名前が調査兵団を希望することなんて、僕には当然わかっていた。それでも僕は、それを嫌だと思う。僕だって調査兵団へ行くことは決めている。名前と、同じ。でも、だけど、名前には怪我や怖い思いをして欲しくなかった。数年前、シガンシナ区で僕たちを襲った、あの日のような地獄のような、あんな経験をして欲しくなかった。僕は思わず唇を噛みしめた。


「そ、か…名前は、どうして調査兵団に?」

多分名前は、その純粋な目で海が見たいからとか、外の世界を見たいからなんて言うのだろう。なんて予想していた僕の考えを名前は一掃したので、驚いた。


「巨人たちを全滅させて、外の素敵な世界を取り戻すの」


がん、と頭が殴られたようだった。彼女は知っていた。壁の向こうが希望で溢れている訳では無いということを。いつの日か聞いた「外の世界はきっと素敵だ」という言葉は、今は奪われているけれど、昔はたしかに素敵だった、そういう意味だったのだ。僕は彼女を見くびっていた。シガンシナを襲ったあの日、彼女はもともと内地の生まれでその出来事にはほとんど関与しなかったという。つまり、元お嬢様。その平和な暮らしを投げ捨てでも名前は、外の世界が見たかった。そう、それに違いはなかった。けれどそんな彼女を怪訝する人もいた。特に巨人に家族や大切な人を奪われた人なんかは、名前のことを世間知らずの馬鹿だなんて言っていたこともある。最も、今ではそんなことなくなったのだが。僕だって、少なからず名前のことを世間知らずだな、と思ったことがある。一歩壁の外へ足を踏み入れたら、すぐに捕食されてしまうかもしれないのに、と。けれど、そんなことはなかったのだ。彼女は、すべてを知っていて、現実を受け止めながらも尚外の世界に憧れていたのだ。むしろ、この過酷な環境下で次第に外の世界への希望が薄れていっていたのはこの僕だ。名前はずっと希望を持っていた。名前は、僕なんかよりもずっとずっと大人だった。



「もちろん、海を見るためでもあるのよ」

「でも、そのためには一刻でも早く巨人たちをなくさなきゃ」


「わたし、世間知らずだって自覚してるけれど、それでも戦いたいの」

「わたしは外の世界のために、夢のために、自分の命を捧げるのよ」


「アルミン…ねえ、アルミン?」


自分の馬鹿さに、嫌気がさした。名前が何も言わない僕を心配して顔を覗き込んでくる。とても心配そうに。体調が悪いのかと、僕の頬に添えられた温かな指先。僕はその小さな手を掴んでぐっと抱き寄せた。がた、と名前が座っていた椅子が倒れる音さえも気にせずに。


「アルミン、どうしたの?」


「ごめん…名前」

抱き寄せて近くなった名前の首のあたりに顔を埋めて、小さく泣いた。彼女はこんなにも自分の夢を追いかけている。夢のために、心臓を捧げる。それに比べ僕はどうか。心の奥底に沸く小さな諦めという言葉にずっと気づかないふりしていた。彼女に諦めなんていう言葉はない。ただただ、その目には希望を宿していた。それに気づいたとき、僕は僕の中の諦めというモノを捨てた。ただ僕は、素敵な世界を、海を、生き物たちを、名前と見たいと思ったのだ。心配そうに僕の髪を撫でる名前に目配せして、僕は言った。


「必ず、海を見よう」

必ず、と念を押すようにもう一度呟く。名前は驚いたようだったが、すぐに笑顔になった。花が咲くような笑顔で、「もちろんよ、アルミンと見たいわ」と言った。その時ばかりは、僕はまた名前を強く抱きしめた。恥ずかしいよ、なんて照れる名前を、ずっとそばに置いておきたいと思った。死なせない。純粋だけれど大人な、彼女のことを死なせるわけにはいかない。心に決めたことだった。






数年後、僕はリヴァイ兵長から彼女が死んだという報告を受けた。







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