アタシが昔、本当に昔、7代目八雲師匠のもとへ引き取られた数日後のことです。アタシたちが師匠のもとで世話になることを快しと思わなかった姐さんがある1人の…丁度アタシと同じくらいの歳でしょうか、長い黒髪を垂らし青白い肌にうっすら染まった小さな唇が映える少女と楽しそうに話しておりました。幼い頃から周りにいたのは自身より一回りも二回りも年上の女性ばかりでしたので同じくらいの彼女がたいそう珍しく思いその姿をまじまじと見てしまっているのでした。はたと気づいた姐さんが少女を振り向かせてアタシのほうへ歩み寄ってきました。

「ああ、名前、あいつがとった弟子の片割れだよ。挨拶してやんな」
「はじめまして、名前です。よろしくね」
「…坊です」

凛としたなまりの少ない声はすぐにアタシの耳に残り、そして記憶しました。しとやかな着物と髪飾りが可愛らしい女の子でした。思えばもう1度目にしたときからアタシは彼女に惹かれていたのかもしれません。アタシよりも先に信さんと知り合っていたことを後に知り、彼女とアタシたちは自然と仲良くなっていったのでした。



「坊さん。おはよう」
「ああ、名前さん、おはよう」

あの日は朝からとても暑く信さんは水浴びにゆくと出ていったっきり、アタシは縁側に腰掛けてうるさい蝉の声と照りつける日差しを憎らしく見上げていた時です。ぱたりと会った彼女は、いつもの可愛らしい着物を暑いのかすこしはだけさせて手をパタパタとさせて歩いてきました。先日信さんがこの家の通りを通った女性を見て「ああいうオンナはいいな」などと戯れていたことで、自然とアタシは目の前にいる少女を不覚にも意識していたのです。一挙手一投足に緊張し、今まで抱いていた淡い感情が熱を持って現れてきたように感じます。それを知ってか知らずか彼女はアタシの隣に腰かけ、2人でじわりじわりと暑さのしみる空を見上げていた時です。

「ねえ、坊さん」
「はい?、」

不意に名を呼ばれ顔を向けたその時、目の前には端麗な彼女の顔。何が起こったのかわかりませんでした。小さく柔らかななにかがアタシの唇に触れる感覚。それは恋仲同士のふたりがする、紛れもない愛の形でした。余韻を感じることなく一瞬で離れたそれ。あまりのことにアタシは驚いて彼女を見ます。

「みんなには、内緒よ」

人差し指をあて小さくわらう彼女がいました。思えば彼女は不思議な人で、突拍子もないことを平気でする破天荒な一面を持つ少女でした。その瞬間が、女性経験のすくないアタシにとっての初めての行為となりました。顔を赤らめてそそくさとその場をあとにする彼女をぼんやりと見つめ、いくらかしたあとに彼女にされた行為を理解しアタシは恥ずかしさで顔を覆ったのです。次に会ったら、どんな顔をすれば良いのかと。
しかし、その次はやってはきませんでした。あの小さな少女はまた突然前触れもなく消えてしまったのです。信さんもアタシも当然驚き、師匠に聞きましたが「名前は田舎に戻ったんだよ」と言うばかりです。信さんはそれを信じていましたがアタシにはどうもそれが嘘のような気がしてなりませんでした。不思議な彼女は大きな不思議を残したまま、幼少のアタシに出会うことはありませんでした。





それから何年も過ぎて、みよ吉という女性に出会いました。形のいい唇と人懐こい笑顔はどことなく昔の彼女を思わせる雰囲気でした。あの少女と間違いなく重ね合わせていたのだと思います。そして流れが変わったのはあの日、アタシが信さんたちと挑んだ鹿芝居、弁天娘女男白浪を演じている最中のことです。間違いなく今までと違う客の視線。不意にぐるりと客の顔を見渡すと、端の方に見知った顔があったのです。あれは、まちがいなくあの子、名前さんだと確信しました。あのときより少しばかり成長した顔つき、柔らかなあの微笑み、一瞬だけでも十分すぎるほどに、アタシは、確信したのです。彼女がアタシの芝居を見ている。女形というのは不本意であるがいままでと違う客は、よりいっそう違うものに変化したのです。終わったあとも湧き上がる歓声。舞台裏で信さんが飛びついてきた時、アタシはまず最初に彼に報告したのです。

「信さん、名前さんが」
「ああ、見てたぜ。ありゃあきっと名前ちゃんだ」

やはり目敏い信さんは気づいていました。そして彼の確認が取れたところで、やはり彼女がいたのだと心が暖かくなりました。一刻も早く会いたい。あんなに惹かれていたはずのみよ吉さんのことを、あのときはもう既に頭になかったのでアタシは悪い男です。化粧を落とす前に裏口から彼女を探そうと試みました。客はもう帰っていましたし閑散とした暗闇では彼女を探すことは叶いませんでした。


「…坊さん」

静まり返った街に響く凛とした声。聞き覚えのあるそれに弾かれたように後ろを振り返ると、彼女はやはりあの柔らかな微笑みで立っていたのであります。感無量、何も言えなかったアタシに柔らかく青白い小さな手がアタシの頬を触ります。数年前のあのことは、忘れたことはありません。細い腰をぐっと引き寄せて、優しく抱きしめました。やっと触れることの出来た彼女、どうしても離したくないという感情が渦巻いていたのです。

「いまは、菊比古さんなのですね」
「ええ、アタシはあなたをずっと待っていました」
「とてもいい芝居でしたよ」

破天荒さはなくなり、しとやかに丁寧な口調で話す彼女に他人行儀さはまったく感じられませんでした。するりとなぞる手に、心地よい声。不思議な彼女はまた不思議なタイミングでアタシの前に舞い戻ってくれたのです。アタシは思うままに伝えました。「あなたが欲しい」と、「あなたと添い遂げたい」と。拙く考えなしに発せられる初めての愛の言葉も彼女は優しく聞き入れてくれました。

「菊比古さん、わたしも好いています」
「名前さん…」
「でも菊比古さん、また全てが終わった時に迎えにゆきますわ」

全てが終わった時に、とても意味深な言葉を残して彼女はするりとアタシの腕の中から逃げてゆきました。ああ、彼女はまたしてもアタシの前から忽然と姿を消すつもりなのです。けれど、アタシにはそれを止めることはできませんでした。関係を持ってしまったみよ吉さん、信さん、そして落語。全てが全て追いつかなくなっていたのです。全てが終わった時に。彼女のその言葉は今思えばそれらを見据えてのことだったのかもしれません。永らく見つめあった後、ちいさな彼女が背伸びをしてまたあの時のような口づけをしました。初めてしたときと同じ感覚。すっと離れてゆく唇が名残惜しくてもう一度アタシのほうから口づけました。嫌がることはなく、真っ直ぐにそれを受け止めると、くるりと踵を返して闇夜を消えていったのです。このことは、信さんにはもちろん誰にもいうことはありませんでした。彼女に再び会ったのはアタシだけでいいと、思いました。





そして今、八代目八雲を継ぎ、唯一無二の男を亡くしたアタシは一人生活感のない畳に腰を下ろしていたのです。手には長らくつけていた日記。これを見ながら、アタシは昔のことをただただ思い出しておりました。またしても大きな不思議を残した不思議な彼女は、いまどこにいるのか。それは実に簡単なことでございました。未だに前座名で、時たま通称でアタシのことを呼ぶ人は、もう限られていました。

「菊比古さん、与太郎さんがお探しですよ」

すっと障子を開け柔らかく微笑む年老いた彼女は、いつまで立っても小さな少女そのままだったのでございます。




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