とすこさんリクエスト:十雪
久しぶりに顔を見た雪光先輩は髪が伸びていて、少し、痩せたように思う。全く同じ形の制服をまとっているというのに、胸のポケットに挿されたピンク色の花は、明日からこの人をここではない何処かへ連れていく力を持っている。もちろん俺の胸にその花はない。もうここで同じ服をきて顔を合わせることがないのだと思うとどうにも心境に靄がさして、存在しないピンクを握り潰さんと自身の胸元に虚しく手が伸びた。
年々歳々、花あい似たり。
泥門デビルバッツの部室では、文字通りのどんちゃん騒ぎが繰り広げられていた。全国優勝を果たした際にさらに煌びやかになった部室の中では、外装に負けないほどに奇抜なやつらが騒ぎ狂っている。盛大な笑い声に混じって時折鼻を啜る音が聞こえるのは、今日が私立泥門高等学校の卒業式だからなのだろう。
ヒル魔、栗田、武蔵、姉崎、雪光の五人は今日を以てここを卒業する。俺にはそれが、なんとなく想像できなかった。まいにち毎日、何が楽しくてやっているのかもわからないヒル魔の地獄のような練習メニューをこなし、試合だ大会だと柄にもなく部活動に躍起になった。負ければ死ぬほど悔しかったし、優勝した時は涙が出るほど嬉しかった。こんなものに全く縁遠い生活を送っていた俺を、まんまと引きずり混んだ張本人たちはもう、高らかに校門を抜けて二度と同じ形では戻らない。悪魔のような司令塔が、食いしん坊の優しい巨漢が、老けた顔した飛ばし屋が、世話焼きのマネージャーが、そして、俺たちと同じようにしてここへやってきた痩せっぽちの勇者が、いなくなったこの部室を俺にはどうしたって思い描くことができなかった。けれどもそういう風にして世の中が回って、いずれは俺たちも後輩に同じように思われながらここを去って行くのだろうということも、確かに理解している。それに駄々をこねるほど、俺は子供ではなくなった。ただ一つ、どうしても拭いきれない思いがあるとするならそれは、視界の隅でまるで無邪気な子どものように、落ちてくる桜の花弁を追いかけるこの人のことだろう。
「なあ、あんた。中にいなくていいのかよ。」
男女比のどう考えてもおかしいむさい部屋から、外の空気を欲して出てきた俺についてきた雪光先輩に投げる。あんたたちのためのどんちゃん騒ぎなのに、主役がいなくてどうするとも思ったのだが、あの人は愛想のいい笑顔を浮かべて言った。
「うん、ちゃんと戻るよ。でも、もう少しだけここを見ていたいんだ。」
卒業だからね、と少し首を傾げるこの人に抱く感情の名前を、俺は知っている。けれども口に出さないのは、それがどうしようも無いことだからだ。勉強だけが取り柄で運動なんかこれっぽっちもできなくて、華奢で白くて弱々しい、それでも懸命に食らいついてきたこの確かな戦士を抱きしめるだけの勇気も度量も権利も、俺には無かった。
「十文字くんは、もう大学決めたりしてるの?」
「いや、まあなんとなくっすけど。」
「そっかあ。十文字くんは頭いいから、きっと合格できるよ、頑張って。」
雪光先輩はこの春から、少し離れた医大へ進学する。俺はきっと、いや絶対、そこへ行くことはない。アメフトは続けるつもりらしいから、大学リーグやらで顔を合わせることはあるのだろうが、いずれにしても違う道を行くことになる。これを言うことはもうない。
「医者になったあんたが見たい。」
言いたいこととは程遠いセリフを言えば、相変わらずの笑顔を見せるあんたがどうしようもなく好きだ。好きだった。
甘ったるいとヒル魔に捨てられた、戸口に転がるピンクの生花を俺はぼんやり眺めている。今年の桜は早い。高校二年が終わる春の入り口だった。