幼い頃から、大きなクジラを自分の家で飼うのが夢だった。
 
メダカだとか金魚だとか、小さな魚を飼うのも悪くはなかったが、僕はどうしても、大きなクジラを飼いたかったのだ。僕をひとくちで飲み込んでしまうような、そんなクジラを。
 誕生日に何が欲しいかと両親に聞かれるたび、本物のクジラが欲しいとねだっては、二人を困らせたものである。

「クジラはね、海にいるの。とっても大きいから、おうちで飼うのは無理なのよ」

母はそのたびに僕にそう言い聞かせ、代わりにクジラのぬいぐるみ、クジラの水鉄砲、クジラのキーホルダーなどを買ってくれた。
それでも納得できなかった僕は、クジラのぬいぐるみを水をはった水そうに沈め、クジラを飼っているような心地を味わった。

 
 今、僕の眼前には、大きなクジラが腹を見せ、優雅に泳いでいる。
 そう、これだ。沈んで動かないクジラではない。尾ひれを使って水をかき、ゆったりと泳ぐ姿を、間近で見たくて仕方がなかった。
 クジラの腹にはコバンザメがひっつき、ちょこまかとひれを動かしている。なんともかわいらしい姿に、思わず頬が緩んだ。


 クジラを飼うことが不可能である、とようやく理解した僕は、その反動のように、どんどん海中への憧れを加速させた。

 海の底にはどんな生き物がいるだろう、新種のクジラはいるだろうか。不気味な深海魚でさえ、僕には非常に色っぽく見えた。

 本棚には魚や海獣の図鑑が増え、お小遣いは水族館の入場料や海への交通費に消えた。最初にクジラを飼いたいと思ったその時から、彼らは僕の心をつかんで離さない。一体何がきっかけだったか、もう忘れてしまった。きっとささいなことだったのだろう。

 水の世界に取り憑かれた僕を、級友たちは遠巻きに見ていた。級友たちが外でサッカーをしたり、鬼ごっこをしたりしている間、僕は自由帳にひたすら絵を描いていた。
 それは、水そうの絵だ。
 
 B5サイズのノートいっぱいに、たくさんの魚を描く。真ん中にはもちろん大きなクジラ。図鑑が擦り切れるほど読み込んでいたから、大抵の魚やクジラは、何も見ずにすらすら描けた。
 
 クジラの横には、小さな僕が笑顔で立っている。手を伸ばせば触れそうなほど近くに。その絵を見るだけで、僕はえも言われぬ幸福に胸を満たされる。
 自由帳のページはいつも水そうの絵で埋まった。


 クジラは僕の前を泳ぎ去っていった。次は何が通るだろうか。

 最近はラブカを見ない。ラブカは細長い体と、緑色の目が特徴の深海ザメだ。顔立ちがなかなかかわいらしく、サメとは思えないくらいだ。
 あのウナギのような泳ぎ方は見ていて楽しいのに、ここのところ、とんと見かけない。今頃どこを泳いでいるのだろう。

 クシクラゲがピカピカ光りながら漂っていくのを見送り、僕は再び、海の中に目を凝らした。


 水中への憧れを捨てられなかった僕は、海洋系の大学へ進学した。そこでもひたすらクジラのことを考えていた。

 大型のクジラを飼うために必要な設備、水そうの大きさ、かかる費用。考えれば考えるほど、僕がクジラを飼うことが不可能であることが分かった。それこそ石油王だとか、相当成功した一部の人しか飼うことはできないだろう。それだって、維持費は相当だから、継続して飼えるわけもない。

 大学に入り、朝から晩までクジラのことだけを考えて過ごす日々は、これ以上ないほど充実していた。やはりここでも周囲には敬遠されたが、どうでもいい。僕にはクジラがいればよかった。水の中を美しく泳ぐ彼らがいれば幸せだった。

「君ね、自分の好きなことに打ち込むのもいいけど、それだけじゃ生きていけないよ」

 教授には苦い顔でそう言われた。

 本格的にクジラを研究したいと思うなら、大学を卒業後、大学院に進まなければならないと。

だが、研究したいのかと聞かれると、少し違った。

 僕はクジラが好きなだけで、その生態を解き明かしたいとは思わない。
 クジラとともに暮らすことが唯一の夢なのだ。それを教授に告げると、彼はため息をついて、空想もいい加減にしろと吐き捨てた。
 
 僕は就活をして、海とは関係のない企業に就職を決めた。
 
 その会社で過ごした日々は、一言でいえば地獄だった。
 いわゆるブラック企業だったのだ。
 
 百時間をゆうに超え、手当もない残業、上司からのパワハラ、先輩からのいじめ。大切にしていたクジラのキーホルダーは、上司が故意に踏み壊した。給料は年々減り、水族館へ行く回数も減った。

 しかし、それは百歩譲って、許してやってもいい。僕が許せなかったのは、上司や先輩などではない。会社そのものだ。

「どうする? このゴミ」
「いつも通り捨てればいいだろ。ばれないようにな」

 この会社は、ゴミを処理する費用を浮かせるために、ゴミを海へと捨てていたのだ。
 廃材も廃液も廃油も、すべてを。
 
 どうしても、それが許せなかった。


 再び、クジラは僕の前にやってきた。
 その腹に触れたかったけど、さすがにそれはできなかった。まあ、これだけ近くにいるのなら、それで十分だろう。
 クジラはしばらく、円を描くように泳いでいた。しかし、突然何かに気が付いたように、どこかへ泳ぎ去って行ってしまった。一体どうしたというのか。

 僕が疑問に思ったのもつかの間、突然まぶしい光が僕を包んだ。目を閉じて光から逃れようとしたが、瞼がないのでそれはかなわない。

 不躾な光に顔をしかめると、今度は品のかけらもない潜水艦が、こちらを照らしながらこちらへ寄ってきた。


 クジラが棲む海を、ゴミなんかで穢したのが許せなかった。

 濁って腐った水を、腹を見せて浮かぶ魚を見るのが辛かった。
 怒りに震えた僕は、何度もゴミを海に捨てるのをやめるよう、直談判した。しかし社長は鼻で笑って僕にコップの水をかけた。

「嫌ならやめてしまえ。お前がいなくなっても、わが社は痛くもかゆくもない」
「どうしてもやめていただけませんか」
「くどい。……そんなに海が好きなら、海の底で暮らしたらどうだ? お前みたいなやつが、うち以外で働けるわけないからな」

 路頭に迷いたくないなら、黙って働け。

 社長はそう言って高笑いした。まるで漫画に出てくるような小物っぷりを内心で嘲笑いながら、僕は目が覚めたような心地がしていた。


『海が好きなら、海の底で暮らしたらどうだ』。

そうか、そうだったのか。


不細工な潜水艦は僕に近づくと、アームを出して僕に伸ばした。

 深海魚やクジラは、あれほど美しい造形をしているというのに、なぜ潜水艦はあんなに不細工なんだろう。人の手で作られたものは、しょせんその程度なのだろうか。
 それにしても、ああ。とうとう見つかってしまったか。
 話を聞かない社長を、僕は机にあったガラスの灰皿で殴り殺した。

「社長、どうもありがとうございました」

 あっけなく崩れ落ちる社長に、笑顔でお礼を告げる。聞こえたかどうかは分からない。聞こえなくてもいい。今はただ、素晴らしいアイデアの実行を急ぐだけだ。

 クジラを飼うのが夢だった。それはつまり、クジラとともに暮らしたかったということ。どうして今まで気が付かなかったのだろう。

 クジラとともに居たいのなら、僕が海に沈めばよかったのだ。


 アームは僕の体を掴もうとしたのか、かなり近くまで来たが、やはり何もせずに戻っていった。僕の体はもはや、肉よりも骨の方が多い。海に沈んだ肢体は、腐敗のガスを発生させるよりも早く、魚に餌を与えた。

 潜水艦は徐々に遠ざかっていく。回収はあきらめたのかもしれない。そうであってほしいと思う。

 ここで、大好きなクジラを眺め、深海ザメを眺め、小さな生き物たちを眺めて過ごすことが、僕がほんとうにやりたかったこと。

 この水葬こそが、僕の幸福なのだ。

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