がりがりに痩せこけた男が、釣竿を垂れていた。
私は彼に近寄って話しかけた。

「何か釣れますか」

彼は落ち窪んだ目を私に向けると、ぷいと顔をそらし、聞き取りづらい声で答えた。

「何も釣れやしない」
「どうして?」
「糸がないからさ」
「糸」

言われて釣竿を見ると、なるほど確かに糸はない。釣竿はよく見るとメッキがはげ落ちてみすぼらしい。糸もない釣竿で、彼はいったい何をしているのだろう。
私は再び、彼に問いかけた。

「それではここで何をしているのですか」
「糸を待ってるのさ」
「糸」
「糸がいらないという人がたまに来るから、その糸を待ってる。絡まった糸だがね」

絡まった糸を待つとは、またおかしな人である。

少しだけ気にはなったが、私も先を急ぐ身。それなら早くそんな人が来るといいですねと男に言い残し、私は歩き出した。

男は不愛想にああ、と答えると、がりがりの体を丸めて、釣竿の先に目を凝らした。

しばらく進んで、泣きながら歩いているきれいな女性とすれ違った。手にきらきら光る糸を持って、どこかを目指していた。糸はごちゃごちゃと絡まっていた。

ああ彼のもとを目指しているのだ。彼もこれで、糸のない釣竿とはおさらばできるだろう。私は安心して先を急いだ。


 幾月か経って、私はまた、あの男のもとを訪れた。少しはふっくらしただろうかという私の予想は、さらに痩せこけた男によって裏切られた。
目はいよいよどんよりと濁り、指先は細かく震えている。腹は餓鬼のように膨れていた。

 不思議に思いつつも、私は再び、彼に話しかけた。

「何か釣れますか」

男は、今度は私を見もせずに答えた。

「何も釣れやしない」

その言葉を聞きながら、目を釣竿の先へと滑らせる。
あの女性が持っていた、きらきらの糸はなかった。あの糸をもらわなかったのだろうか。

「糸は」
「使うために解いたら、返せと言うから返した。それだけだ」
「どうして?」
「もとは彼女のものだから、仕方ないだろう」
「ふうん」

あの糸があれば自分がたらふく食えるのに、それでも彼は返すのか。

 女性のあの糸は絡まってはいたが、たいそう丈夫そうで、よく釣れそうだったのに。一度いらないと言った糸を、返してほしがった理由はなんだろう。

 興味本位で聞こうとしたその前に、私と男の前に、一人の男性が現れた。悲しそうな顔をして、手にはきらきらの糸を持っている。ごちゃごちゃと絡まった糸は、容易にはほどけなさそうだ。
がりがりの男はちらりとその男性を見やり、何の用だと尋ねた。

「この糸を、引き取ってほしくて」
「そりゃまたどうして」
「どうしても解けないのです。持っているとつらいのです。僕にはもういらないのです」

男性は糸を心底悲しそうに見つめて、がりがりの手へ乗せようとした。
骨と皮ばかりの手が受け取ろうとしたのを、私は止めた。糸を見る男性の目に、恋い焦がれる色が見えたから。

「待ってください」

 真黒な淀んだ目が私をにらむ。構わずに続けた。

「まだ、もう少し持っていたらいかがでしょう」
「だけど、つらいんです」
「なくしてもつらいものですよ。自分の手になくても、それはあり続けるのだから」
「あり続ける」
「だからまず、それを自分でほどいてみてください」

男性はじっと糸を見つめて、ある一点をつかみ、ぐっと引っ張った。

まるで魔法のように絡まった糸はほぐれていき、やがて彼の手の上には、一本の美しい糸が乗った。それを見たがりがりの男の口から、ほ、と息が漏れていく。

男性は嬉しそうにその糸を撫でると、私と男に頭を下げて去っていった。

彼の姿が見えなくなってから、がりがりの男は舌打ちして私を見た。

「余計なことをするな。せっかく糸が手に入るチャンスだったのに」
「だけど、糸がほどけてほっとしていたじゃありませんか」
「うるさい。さっさとどこかへ行け」

 男は腕を振り回して私を追い払うと、また糸のない釣竿を構えた。

糸がなければ海もない場所で釣竿を持ち続ける、なんて酔狂な人だろうか。
糸が必要なのに糸を返してしまう、なんて純粋な人だろうか。
私は自分のかばんの中を思い出していた。

私も糸は持っている。だけど、つぎはぎだらけでいつ切れてしまうかもわからない。何か釣るには頼りなくて、だからこそ彼には渡せない。ぬか喜びをさせたくない。彼は自分の糸を持っていないのだろうか。
私は尋ねた。

「あなたの糸はないのですか」
「こんな頼りないもの、使えない」

持ち主によって投げ捨てられた哀れな糸は、幾度も切れた跡があった。
そのたびに結んで継ぎ接ぎしているようだ。ああ、なんだ、私とそっくり。

 私はその糸を拾い、自分の糸も取り出した。がりがりの男は、驚いたように骸骨の目を見開き、二つの糸を見比べた。

「あんたの糸も、頼りないな」
「ええ」
「お揃いだ」
「お揃いですね。だから、こうしましょう」

 私は糸と糸の端を結んで、二つをより合わせ始めた。
二つを合わせてもなお頼りない部分は、自分の髪を抜いて合わせ、強くした。決して解けないように頑丈により合わせると、すぐに一人に戻りたがってしまうから、少しだけ間を開けた。

 より合わせた糸はほどなくして出来上がった。
それは、あの女性や男性の持っていた糸に比べればひどく不格好だったが、負けないくらいに丈夫そうだった。

 その糸をがりがりの男に渡すと、彼は戸惑ってから、おそるおそるその糸を手にした。

みすぼらしい釣竿に不格好な糸が取り付けられ、男は眉をさげて、その釣竿と私とを見比べた。私の頭は、糸を補強するために抜きすぎたのか、頭皮が露出していた。

「あんた、いいのか。これじゃあ糸を返せないぞ」
「はい。その糸は私のものです」
「なに」
「だけど、あなたのものでもあります。同じことです。あなたの糸はあなたのものだけど、私のものでもあります。だから、あなたのためだけではなく、私のためにも釣ってください」
「釣って、どうやってあんたに渡せばいい」
「私はここにいます。ずっと、いつまでも」

私はがりがりの男の隣に腰を下ろした。

男はしばらく釣竿を見ていたが、やがて大きく振りかぶり、釣竿を投げた。
不格好な糸は弧を描いて飛んでいき、ぱしゃんとわずかな水音を立てて落ちた。

ほどなくして釣竿は大きくしなり、男は何かを釣り上げた。魚ではない。この生き物を形容する言葉を私は知らない。しかし、男は知っているようだった。

 私は彼に尋ねた。

「これは何というのですか」
「これはな。幸せというやつだ」
「ああ、これが」

 幸せを求めて忙しく歩いていたが、まさかこんなところにあったとは。
 二人で幸せを手にしてみると、なんとも暖かい。

「私は幸せなのですね」
「ああ。僕も幸せだ」

 手のぬくみと隣の存在が、私の空っぽの心を満たしていく。不格好な糸はいつしか、美しく光る透明な糸になっていた。

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