□キス1回で
断じて浮気だとか、そういうものじゃない。
見知らぬ女子に告白されて、付き合っている人がいるからと断ったら、じゃあ一回だけキスしてくれたらきれいにあきらめると言われ。
そこまでかなりしつこく食い下がられていて、消耗していた俺はそれを聞き入れた。
本人の希望は唇だったが、それは無理だと断り、最終的に手の甲にキスして、それでさっさと帰ってきた。
……ということを、さっきから小一時間くらいかけて前を歩く緑谷に説明しているのだが、返事はおろかこちらを見てもくれない。
分析ノートを読み返したり携帯を見たり、まるで俺の存在など無いかのようだ。
どうやらその告白現場を見たらしく、帰りに教室まで迎えに行ったら、そこから無視状態が続いている。ちなみに事情を教えてくれたのは麗日、飯田の二人だ。彼らも見ていたらしい。
「みどりやー……」
「…………」
そしてこの状況というわけである。
もうすぐ駅についてしまう。
そうなったらたぶん、いや確実に、この状況が長引く。
それはどうにかしなければ俺が(寂しさで)死ぬ。
どうする。押してダメなら引いてみるか? 引くってどうやるんだよ。無視して家に帰るのは一番のバッドエンドフラグだ。じゃあどうしたら。というか告白されたくらいでそこまで怒らなくても。
いやいや今そういう問題じゃなくて。
とにかく引き止めなくちゃと、俺は前を行く緑谷の手を掴んだ。
「わぁっ!」
緑谷は大げさに驚いて、やっとこちらを見てくれた。
それにほっとするのも束の間、大きな目からぽろぽろと涙がこぼれていくのを見て、俺はぎょっとした。
人通りの少ない道とはいえ、むろん人目はある。
道行く人が俺たちを見て目を見開いているのを感じて、俺はひとまず緑谷を引っ張り、人目のないところに行くことにした。
「ごゆっくりどうぞー」
目が好奇心に光っている店員が、飲み物を置いて去っていった。
賑やかなCMが流れるカラオケの音量を少し落とし、俯いている緑谷に牛乳を渡す。
「緑谷、はい」
「……ありがと」
「ああ」
ようやく緑谷がしゃべったことにほっとした。
人目のないところをと考え、真っ先に思い付いたのがカラオケだった。幸いにしてすぐに個室へ入ることができ、こうして二人で座っている。
緑谷はここへ来るまでの間にだいぶ落ち着いたらしく、今は鼻をすするくらいで泣いてはいない。それでも目が赤いのが痛々しいが。
気まずい空気に耐え切れず、俺はやたらと自分のサイダーをストローで混ぜたり、ストローの袋を結んだりしていた。
「……ごめん」
だしぬけに、緑谷が口を開いた。
「ご、……あ、え?」
「あの、学校からずっとその、む、無視してたし……ごめんね」
「え? あ、いや、うん……別にそれは……うん」
しどろもどろになりながら、とにかく気にしていないことを告げる。
もとはと言えば、ちゃんと断らなければとのこのこ呼び出しに応じた俺が悪い。
そうだ、このチャンスを逃してどうする。
「ていうか、あのー……謝るの、俺だよな。ごめん」
「え!? い、いやそれは、こ、断ってたのは聞こえたから! ……ただ……」
「ただ?」
俺が身を乗り出すと、緑谷は両手でコップをテーブルに置き、視線をさまよわせる。
やがて目をそらしたまま、聞き逃してしまいそうなほど細い声で言った。
「……僕だって、まだみょうじ君にキスしてもらってないのに、って……そんな感じ、です……」
「…………」
奇声をあげなかった俺を誰か褒めるべきだと思う。
言っていて恥ずかしくなったのか、緑谷は両手で顔を覆った。
耳が赤いのが見える。俺も似たり寄ったりな状態だ。
キスとかしていいのだろうか。
そりゃ今までもしたかったけど、嫌がられたらどうしようと思って手が出せなかった。
それが空回っていたというわけか。
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