□ああ、僕はもう泣きません
泣いている人を見るのが好きだ。
笑ったり怒ったり、いろいろな感情を映す目が曇って、水の膜を張っていく。湖面のようになった涙が震えて、下の睫毛を経由し、頬へと滑り落ちる。
その様が好きだった。
それを一度口にしたら、趣味が悪い、気持ち悪いと言われてしまったから、それ以来その嗜好を話したことはなかった。
恋人と言う存在ができるまでは。
「俺、人が泣いてるところ見るの好きなんだよね」
「は?」
隣に座って、雑誌を見ていた轟が目を丸くする。
驚いた顔が幼いなと思いながら、俺は手元の本から顔を上げた。
「だからそのまま。泣いてるところっていうか、涙がこぼれたところ? それが好き」
「……それは、俺に泣けってことか?」
「そうしてくれたら嬉しいけど、でも轟って滅多なことじゃ泣かなさそう」
「まあな。そんなガキじゃねえし」
呆れたようにため息をついて、再び轟の目が雑誌に落ちる。その横顔を見つめながら、頭の中で轟の泣き顔を想像してみた。
顔をゆがめて、せりあがる感情に戸惑って、左右の違う目から透明の涙が。
考えただけでぞくぞくするくらい綺麗だ。
別の泣き顔なら何度か、夜に見たことあるけど、やっぱり何かに感情を揺さぶられて泣くのがいい。
「俺ってヤバいかな?」
「わりとな」
「まじかー。へこむわー」
隣にもたれかかってみたら、轟が腕を回して頭を撫でてくれた。
圧倒的イケメン力、夜は俺の下にいるくせに。それを言ったら凍らされるから言わないけど。
うとうとと穏やかな眠気を感じながら、俺はゆめうつつのまま轟を泣かせる方法を考えていた。
そうだ、あの時はただ、泣いている人の顔が、涙が好きで。
それがとてもきれいで、冒しがたいものに思えたから。
「こちら、ヒーロー……げほっ、避難、完了」
大きく抉られた壁の向こうに、丸い月が見えている。
今日は満月だ。
その月を飾るみたいに、俺の視界には朱や金色の炎が燃え盛っていた。自分を自分で燃やした敵は、もう動かない。黒く焦げた人の臭いも、いつしか気にならなくなっていた。
『……るか、……な、……ぐに……』
「……あー……」
戦闘の中で着実にダメージを受けていたのは俺だけではないようだ。
もう何も聞こえない通信機を外して、炎の中に投げ込む。
この敵の炎はどうやら特殊らしく、燃えにくいだろう通信機をあっという間に舐め上げた。よく燃える。
火力発電にさぞ役立つ個性だろうなと思いながら、俺は咳き込んだ。
喉の奥に絡まっていた痰のようなものは血だったらしい。
やっぱり腹に一発大穴を空けられたのがダメだったか。手足もしびれてきたし、ここまで燃えたら、ビルが倒壊するのも時間の問題だろう。
残念だ。
「……あっつい……」
暑いのは嫌いだ。だったら寒いほうがいい。
そういえば、焦凍にはなんて言おうか。いや、もう言えないけど。
焦凍は今、他県に仕事に行っている。1か月も離れるなんて嫌だと駄々をこねていたのを、無理やり送り出したのが1か月前。仕事が伸びたとか言っていたから、まだ帰ってきていない。
しかし、敵の炎にやられましたなんて最期だと、また父親を、炎を嫌ってしまうだろうか。最近はだいぶ改善されてきたのに。
挨拶に行ったとき、エンデヴァー怖かったな。
こんな時だと言うのに、俺の頭をよぎったのはそんなことだった。
こういうとき、走馬燈とかがめぐるんじゃないのか。それとも、走馬燈が全部、焦凍のことなんだろうか。
結局泣き顔を見ることはかなわなかったのが少し心残りだけど、まあ、もういいか。
ちろちろと炎の舌が伸びてきたのを横目に、目を閉じようとした、その時。
炎に縁どられていた月が凍った。
俺の足にかみつこうとしていた炎が、それごと凍る。
サウナを10倍暑くしたような息苦しさは消えて、今度は冷え切った空気があたりを包んだ。
「……さむっ」
やっぱ寒いのも嫌かもしれない。
とはいえ、こんな芸当ができるのは一人しかいない。
燃えつきた建物の残骸を踏みつけながら、誰かがこちらに走ってくる音がする。
なんだかなあ、こんなところに立ち会うなんて、運がないな。
「っ、なまえ!!」
「……焦凍」
焦凍は壁にもたれて座る俺に走り寄り、膝をついた。
わずかに水音がした。
仕事と移動で疲れていただろうに申し訳ない。
腰に下げられているカプセルのようなものから救急用具を取り出し、俺の腹にあてた。見る見るうちに真っ赤になっていくそれに、焦凍の血の気が引いていく。
「焦凍、……もういい、よ」
「いいわけねえだろ、何言ってんだ! 待ってろ、すぐ救助が、救助が来るから、」
「俺も、そうおもい、たいけど、さ」
足場の悪さに加え、ここは最上階に近い。焦凍は個性で上ってこられたかもしれないが、下にいる救助隊はそうじゃないし、それに。
ちらりと床に目をやると、焦凍もそれに倣う。
俺を中心に大きく広がる赤い水たまりを見た焦凍の顔は、いよいよ青い。
「ごめんな」
「なんで、謝ってんだ? いいからしっかりしろよ、すぐ、すぐに、ぜったい……」
「、焦凍」
重くて仕方ない腕を持ち上げて、焦凍のほうへ差し出す。
いつも冷たい焦凍の手が今日は暖かく感じた。俺が笑ったのに彼は笑わない。いつか見たいと思った表情に変わっただけ。
顔をゆがめて、せりあがる感情に戸惑って、左右の違う目から透明の涙が。
あんなに見たかったものが、ここにあるのに。
「……あぁ、いやだなあ」
見たかったけど、やっぱり見たくなかったかもしれない。焦凍に握られていた手を頬に伸ばして、涙をぬぐってやった。
腹の痛みはもう気にならなくなってきたけど、今度は胸が痛くて仕方ない。
焦凍にも今こんな痛みを味わわせているのかと思うと辛かった。
「焦凍、泣くな、なくなよ」
「っ、下に八百万も来てる、今のあいつなら、お前を」
「泣くなよ、……焦凍」
たとえ俺がいなくなっても。
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