おそらくそれは


人を泣かせるのは良くないことですと小学生の時に説教された。

俺があの時山田くんを叩いたのは、彼の筆箱がクラスメイトにぼろぼろにされたのに先生が何もしなかったからで、もしも彼が大声で泣き叫んだらさすがに無視はできないだろうと思ったからだ。

目論見は当たっていじめは他の教師や山田くんの親にも知られるところとなり、転校していった彼から俺はぼろぼろの某スポーツブランドの筆箱をもらった。

あれが正しいことだったとは今は思わないが、間違っていたとも思えない俺はきっと本質的にはあのいじめっ子たちと変わらないのかもしれない。


ばちん。

「……えっ」

唐突に俺に頬を張られた迅は、痛みよりも驚きで目を丸くしていた。
目撃していた太刀川さんと風間さんも(風間さんは珍しく)びっくりしているようで、ぽかんと俺を見ている。

迅はそっと自分の頬を触り、はたりと手を落とした。トリオン体ではなかった。トリオン体を叩けば俺の手が痛いだけだ。今も痛いけれど、コンクリートを叩いた時よりは痛くない。

なんでそんなことを知っているのかというと、まぁそれはいい。

今重要なのは、俺が迅の頬をひっぱたき、太刀川さんと風間さんが目を丸くし、迅がじわりと目に涙を滲ませたことだ。

「え、……な、なんで?」
「……蚊?」

特に言い訳が思いつかなかったので、夏ならば通用しただろうことをうそぶく。
いま冬じゃん、とびっくりしたままの迅が反論し、ようやく時間が動き出す。

太刀川さんと風間さんは珍しく息の揃った動作で俺の頭と背中を殴った。どちらかといえば背中の方が痛い。

「おっまえ、いきなり何してんだよ? 今そういう話の流れじゃねーだろ!?」
「痴話喧嘩なら俺たちのいないところでやれ」
「すみません」

風間さんの言うことにはいささか反論の余地があるが、太刀川さんの言葉については全面同意だ。
今の議題は迅が最上さんの黒トリガーを手放したことについてで、俺のビンタも蚊も関係ない。

なんなの疲れてんのと太刀川さんが俺の頭をぐしゃぐしゃとかき回し、俺は誰かさんのレポート代筆してたせいですかねと言い返す。頭から手が離れていったので、再び迅に視線を向ける。

先程目に浮かんでいたなにかはとうに引っ込んだらしく、呆れ顔でこちらを見ていた。
さすが自称エリート、隙を見せるのは嫌いらしい。

「別に痛くないからいいけどさー、前もって言ってよね。読み逃したわ」
「叩いて悪かった」
「いいよ。で、なんで叩いたわけ?」
「……山田くんを思い出した」
「待って誰?」

更に混乱する迅と、訝しげな風間さんと太刀川さんを置いて、俺はこれから防衛任務だからと言い訳してその場を離れた。


迅が黒トリガーを手放し、時期を同じくしてボーダーに三輪と戦闘した近界民の少年が入隊した。
俺はしばらく風間さんたちにビンタの件をなじられたが、そのうち忘れられたのだろう、誰も話題にしなくなった。

しかしあれから、なぜか迅とよく会うようになった。

例えば防衛任務の帰りだったり、ランク戦の帰りだったり、はたまた会議に出席すれば隣にいたり。
俺が意識しているだけとは言い難いほどの頻度だ。

そして今日もまた、迅は俺の前にいる。

「みょうじ、お疲れー」
「……迅、最近本部来すぎじゃないか?」
「例の件の対応で実力派エリートは忙しいんですう」
「そうか」
「ちょっとは突っ込んでよ、おれ今結構恥ずかしいんだけど?」
「そうか」

城戸司令に提出する書類を持って廊下を歩いていると、相変わらずあっけらかんとした笑みを浮かべて立っていた。
誰かに足を引っ掛けるためとか、電球を変えるためとかならともかく、まずもってして誰も用がない場所に。例の件とやらはあの件なのだろうが、それにしたとてなかなか用を見繕うのは難しい。
やはり待ち伏せでもしていたのだろうか。

会釈を返してそのまま歩いていこうとすると、背後から迅に抱きつかれた。
肩に顎が乗っかり、その場に引き止めるように体を押さえ込まれる。歩こうと思えば歩けるがやや手間なくらいの拘束に、仕方なく足を止めた。

「あのさ」
「ビンタか?」
「それも、だけど。山田くんて誰?」

迅はどうやら俺のビンタの理由より山田くんの方が気になるらしい。

山田くんは小学校を転校し、お隣の蓮乃辺に引っ越していった。
高校の時登山していた際に偶然会って、たまにメールをするくらいの仲である。

「山田くんは俺の」

俺の友達だと言いかけて、ちょっと待てよと思いとどまる。

どうして俺は山田くんを叩いたのだったか。

もしも彼が泣いたらみんな無視できないと思った。それだけか。
たしかにそれは思ったし、実際再会した山田くんからはあの場で泣けたからみんなに気づいてもらえたと言われた。大部分の理由はそれだが、けれどもう一つ。

泣きたいなら、辛いなら、俺の前では我慢しないでほしいと思ったのだ。

「……初恋の人?」
「はつっ……え?」
「ああ、うん、なんかしっくりきたな。そうか、あれ初恋だったか」
「ちょ、待って、友達じゃないの!?」
「別に初恋の人と友達が共存できないわけじゃないだろ」

喚く迅の拘束を外し、くるりと踵を返す。慌てる彼に真正面から向かい合う形になって、俺は手を伸ばし迅の耳を軽くつまんだ。
耳がちぎれてもいいなら逃げられるがそうでないなら逃げられない、絶妙な力加減だ。逃げられては困るからだ。

珍しくよく泳ぐ迅の瞳を見下ろし、尋ねる。

「俺の初恋の人が山田くんだと、何か不都合でもあるのか」
「ないよ、そりゃ、おれはべつに、」
「迅」

強く耳をつまむ。
痛みにか迅が硬く両目をつむったので、存外近かった顔をさらに近づけて、無駄に端正な顔立ちの中心、つまりは鼻にむにっと唇を押し付けた。
顔を元の位置に戻すと、しばしして呆けた顔をした迅がゆっくりと目を開ける。

俺は耳から手を離し、ぐしゃっと茶色い髪をかき回した。

「次は頼れよ」

俺は再度踵を返して、今度こそ城戸司令の元へと足を進めた。

あのとき、自分の行動原理をもっとよく見つめていたら、山田くんを叩かなくても良かったのだろうか。
鼻か頬にキスをして頼れよといえただろうか。

まあそんなことをしたいのは今のところ、俺の背後でなんなんだよお、と情けないうめき声をあげる自称実力派エリートにだけなのだが。



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