忠犬、きみ


赤信号で停車し、色が変わるのを待っていると、ふいにみょうじが口を開く。

「唐沢さん、どうして助手席に?」
「不満かな?」
「いいえ、そういうわけでは……」
「冗談だよ。たまにはいいかと思ったんだ」

唐沢は隣にある短髪の頭に手を置いた。

「それよりも、今日はよく喋るね」
「申し訳ありません」
「怒っていないさ。何かあったのかな」

「…………」

みょうじが黙り込む。
おそらく、追及したところで大したことではないと答えるのだろう。車が動き出したのに合わせ、頭から手を退ける。
数十分ほど車を走らせて、家の前の道路に出ると、再びみょうじは口を開いた。

「今日、先方はどんな様子でしたか」
「特に気になることはなかった。強いて言えば、しつこく飲みに誘われたが、その程度だよ」
「……それがまずいんです」
「まずい?」

スムーズに駐車を済ませて、唐沢の疑問には答えないままみょうじは車の外に出る。
いつも通り唐沢のために車の扉を開けて、ロックをかけると、すぐに玄関の扉も開ける。

いつもながら、自分を少しも待たせることなく、すべての動作を行うのだからさすがだと唐沢は思う。

家の中に入ると、今度は唐沢のコートと鞄を受け取り、ほこりを軽く払ってからハンガーにかけた。唐沢が手を洗い、上着を椅子にかけている間に、みょうじは自分の手を消毒して茶を淹れ、かいがいしく唐沢の世話を焼く。

「みょうじ」
「はい」
「さっき。それがまずいと言っていただろう? 続きは?」
「……」
「なまえ」

名前を呼ぶ。
彼はびくりと肩を震わせて、唐沢の足元、床にそのまま腰を下ろした。犬に「おすわり」と命じたような気分になって、内心で唐沢は笑った。
顔はあくまで飼い主のまま、続きを促す。

「それで、続きは?」
「……先方に連絡をしたら、唐沢さんは酒が弱いらしいなと。……取引先を酔わせてホテルに連れて行って撮影して、それをネタにゆすると、噂になっていた男です」
「そんな話は聞いたことがないが……」
「一昨年自殺した女優。所属事務所が、あの会社と契約していました」

淡々となまえの口からそんな言葉がこぼれる。
目は暗く淀み、まるで拾った時のようだ。

なるほど、言われてみれば、こちらを見る目つきがおかしかったような気もする。

引き止めようとして今日は口数が多かったのか、と唐沢は納得した。大口の契約だから、その方面に疎いなまえは言い出しづらかったのだろう。
すっかり元気をなくしたなまえに、唐沢は手を伸ばす。朝に自分がセットしてやった頭をぐしゃぐしゃにして、額に唇を押し当てると、途端になまえは目を輝かせた。

見えるはずのない尻尾を大ぶりに振り始めて、とうとう唐沢は吹き出す。

「心配されていたみたいだね。……ただ、もしそんなことになったら、なまえが乗り込んでくるだろう?」
「はい」
「なら無用な心配だ。第一そこまでの隙は作らないよ」
「……コップ一杯でひっくり返るくせして」
「鬼怒田さんよりはマシだよ」

なまえの首をさすると、気持ちよさそうに目を細める。
唐沢限定で触られるのが好きらしい。本当に犬のような人間だ、と唐沢も口角を上げた。

風呂の湯はりが終わったことを知らせる音に、唐沢はなまえを撫でるのをやめて立ち上がる。物足りなさそうな彼に笑ってから、ネクタイをほどいた。

「なまえ。今日は一緒に寝ようか」
「え、」
「心配させてしまった詫びだよ。明日はこれといって大きな仕事もない」

ぽかんとした顔のなまえに、唐沢は笑って手を振った。
風呂場に行く道すがら、リビングからどたんばたんと暴れる音が響く。どうやら犬が悶えているようだ。

未だ事情の知れない人間。嫌な噂にやたらと詳しい。警戒こそしても、心を許せる存在ではないはず。当初は唐沢もそんなことを思っていたが、今は違った。

みょうじなまえという人間は、唐沢を決して裏切らない忠犬だ。

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