生きるより愚かな行為


小さなリュック一つを背負って、真夜中でも目立つ大きな黒い穴の前に立っている。
俺から姉さんを奪ったその元凶が、今度は。

「今からでも帰ったほうがいいよ。上司に怒られたくないだろ?」

足が縫い付けられたように動かない。

今すぐあいつの手をつかんで引き寄せて、少し叱ったら一緒に帰るべきだと、頭ではわかっている。
だけど、それができなかった。

みょうじの手に握られている。黒い物体に目が吸い寄せられる。

「みょうじ、それは」
「これ? これは俺の師匠だよ。見てみる?」

黒い物体は、みょうじが握り方を変えると、大きな半月型の刃を出現させた。
なんて似合わない。
あいつはあんなものを持つべきじゃない。

くるくると慣れたようにそれを回す様子は、とてもみょうじと同一人物とは思えなかった。

今日は新月で、月明かりも星明りもない。
だから余計にその刃ははっきりと見える。

薄く光る刃を消し、ポケットに突っ込む。後ろの門は徐々に小さくなっていき、消えてしまった。
それを横目で見て、みょうじはため息をつく。

「消えちゃった。せっかくうまくいったのに。まあそれはいいや。……けどさあ三輪、本気で帰った方がいいよ」

あの声はもう、聞こえない。

「一緒にいたら、三輪まで共犯ってことになっちゃうよ。……まあ書置きは残してきてるから、多少は」

「みょうじ」

言葉をさえぎって、ようやく声を上げる。
笑うか泣くか、いつもそのどちらかを浮かべていた顔は、ただ目を細めるだけだった。

怖いのか悔しいのか、悲しいのか。

「何を、するつもりだ」
「……わかってるくせに」

ぼそりと何事かつぶやいて、みょうじは顔に笑みをはりつけて言った。

「仇を取りにいくんだよ。ただ相手の顔なんて知らないし、向こうは広いから、とりあえず目についたの片っ端からやっちゃおうと思ってるけど」

助けてくれなかったやつも同罪だよねと、暗い目の色に反し明るい声はそう続ける。
向こう。その言葉が意味する場所を、俺はよく知っていた。

「これからたくさん命を奪うんだから、もうこれからは幸せになる権利なんてないでしょ。先に目一杯幸せになっておこうと思って。
だからありがとう三輪、幸せだったよ」

幸せそうに笑うその顔を見るのがつらかった。

笑えない俺を見て、みょうじは少しだけ苦しそうな顔をした。見間違いだったかもしれない。
あるいは、苦しんでいてくれればいいという願望か。

近くに寄ってきた彼の冷たい手が、俺の頬にひたりと触る。
子供に言い聞かせるようなあの甘い声が。

「三輪、言ったよね。近界民はすべて殺すって」
「……」
「俺がやる。全部殺してあげる。腕がちぎれても足が飛んでも、首だけになっても必ず。三輪が生きている間、もう二度と大切な人が奪われないように」
「みょうじ」
「トリオン兵はこっちに来ちゃうけど、それはお願いするね。三輪のお姉さんを殺したトリオン兵の国、いくつかあたりはつけてあるから大丈夫」

手が離れていく。

「幸せになってね。あと、だましててごめんね」

騙されたままでいいのに。

「俺、近界民なんだ」

その言葉を最後に、みょうじの体は黒く溶けて消えた。



みょうじの戸籍は存在しなかった。

学校に登録されていた情報もでたらめで、卒業した中学も家族構成も嘘だった。
あの家だけは確かにみょうじが買ったものらしい。おそらく仲介業者などを雇ったのだろうとあたりは着いたが、詳しいことは分からないまま。

家に残された書置きと、ボーダーのものではないトリガーから、みょうじが近界民であったことはほぼ確定となった。
書置きの効果か、俺に塁が及ぶことはなかった。

そういえば、俺と一緒にいるところを誰かに見られるのを、極端に避けていたように思う。今更になって気が付いた。

みょうじなまえという名も、本物だったのか、今では分からない。

今日もまた、近界民は街へとやってくる。それを切り伏せ撃ち落とし、平和は保たれる。
あいつも向こうで近界民を殺しているのかもしれない。

だけど、それはもうどうでもいい。

騙されたままでよかった。
その生涯をかけて騙しぬいてくれればよかった。

またしても、俺の大切な人は近界民に奪われたのだ。
ただの一言も、好きだと自分の口で告げられないまま、みょうじはいなくなってしまった。

お題:遠吠え


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