□生きるより愚かな行為
小さなリュック一つを背負って、真夜中でも目立つ大きな黒い穴の前に立っている。
俺から姉さんを奪ったその元凶が、今度は。
「今からでも帰ったほうがいいよ。上司に怒られたくないだろ?」
足が縫い付けられたように動かない。
今すぐあいつの手をつかんで引き寄せて、少し叱ったら一緒に帰るべきだと、頭ではわかっている。
だけど、それができなかった。
みょうじの手に握られている。黒い物体に目が吸い寄せられる。
「みょうじ、それは」
「これ? これは俺の師匠だよ。見てみる?」
黒い物体は、みょうじが握り方を変えると、大きな半月型の刃を出現させた。
なんて似合わない。
あいつはあんなものを持つべきじゃない。
くるくると慣れたようにそれを回す様子は、とてもみょうじと同一人物とは思えなかった。
今日は新月で、月明かりも星明りもない。
だから余計にその刃ははっきりと見える。
薄く光る刃を消し、ポケットに突っ込む。後ろの門は徐々に小さくなっていき、消えてしまった。
それを横目で見て、みょうじはため息をつく。
「消えちゃった。せっかくうまくいったのに。まあそれはいいや。……けどさあ三輪、本気で帰った方がいいよ」
あの声はもう、聞こえない。
「一緒にいたら、三輪まで共犯ってことになっちゃうよ。……まあ書置きは残してきてるから、多少は」
「みょうじ」
言葉をさえぎって、ようやく声を上げる。
笑うか泣くか、いつもそのどちらかを浮かべていた顔は、ただ目を細めるだけだった。
怖いのか悔しいのか、悲しいのか。
「何を、するつもりだ」
「……わかってるくせに」
ぼそりと何事かつぶやいて、みょうじは顔に笑みをはりつけて言った。
「仇を取りにいくんだよ。ただ相手の顔なんて知らないし、向こうは広いから、とりあえず目についたの片っ端からやっちゃおうと思ってるけど」
助けてくれなかったやつも同罪だよねと、暗い目の色に反し明るい声はそう続ける。
向こう。その言葉が意味する場所を、俺はよく知っていた。
「これからたくさん命を奪うんだから、もうこれからは幸せになる権利なんてないでしょ。先に目一杯幸せになっておこうと思って。
だからありがとう三輪、幸せだったよ」
幸せそうに笑うその顔を見るのがつらかった。
笑えない俺を見て、みょうじは少しだけ苦しそうな顔をした。見間違いだったかもしれない。
あるいは、苦しんでいてくれればいいという願望か。
近くに寄ってきた彼の冷たい手が、俺の頬にひたりと触る。
子供に言い聞かせるようなあの甘い声が。
「三輪、言ったよね。近界民はすべて殺すって」
「……」
「俺がやる。全部殺してあげる。腕がちぎれても足が飛んでも、首だけになっても必ず。三輪が生きている間、もう二度と大切な人が奪われないように」
「みょうじ」
「トリオン兵はこっちに来ちゃうけど、それはお願いするね。三輪のお姉さんを殺したトリオン兵の国、いくつかあたりはつけてあるから大丈夫」
手が離れていく。
「幸せになってね。あと、だましててごめんね」
騙されたままでいいのに。
「俺、近界民なんだ」
その言葉を最後に、みょうじの体は黒く溶けて消えた。
みょうじの戸籍は存在しなかった。
学校に登録されていた情報もでたらめで、卒業した中学も家族構成も嘘だった。
あの家だけは確かにみょうじが買ったものらしい。おそらく仲介業者などを雇ったのだろうとあたりは着いたが、詳しいことは分からないまま。
家に残された書置きと、ボーダーのものではないトリガーから、みょうじが近界民であったことはほぼ確定となった。
書置きの効果か、俺に塁が及ぶことはなかった。
そういえば、俺と一緒にいるところを誰かに見られるのを、極端に避けていたように思う。今更になって気が付いた。
みょうじなまえという名も、本物だったのか、今では分からない。
今日もまた、近界民は街へとやってくる。それを切り伏せ撃ち落とし、平和は保たれる。
あいつも向こうで近界民を殺しているのかもしれない。
だけど、それはもうどうでもいい。
騙されたままでよかった。
その生涯をかけて騙しぬいてくれればよかった。
またしても、俺の大切な人は近界民に奪われたのだ。
ただの一言も、好きだと自分の口で告げられないまま、みょうじはいなくなってしまった。
お題:遠吠え
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