□ありがとうの笑顔と一緒だった
重苦しい空気の中、おれとなまえは無言で寂しい道を歩いた。
どうしてあいつと居たのとか、あいつに何を言われたのとか、聞きたいことはたくさんあったけど、何一つ言葉にはならなかった。
暗い中にぼんやりと玉狛支部が浮かび上がり、そこでようやく、先を歩いていたなまえがおれを振り向く。
傷ついた顔は消えていたが、同時にいつもの柔らかい笑顔も消えている。
「……、……」
「……うえ? 屋上?」
おれが聞くと、なまえはこくりとうなずいた。
電気の消えた玉狛の扉を開け、そっと足音がしないように中へ入る。
そういえば、今日はボスが本部に泊まるとか言ってたっけ。
暗い室内を、まるで見えているかのようになまえは歩き、階段を上る。おれもその後ろをついて歩いた。だが、彼を見ることはできなかった。
見てしまったら、その先の未来を視てしまうから。
屋上までたどり着くと、なまえはそこでようやくこちらを振り向いた。
おれは目をそらして、屋上のへりに座った。
重苦しい沈黙を破って、おれは口を開く。
「大丈夫だよ、別に変な勘違いとかしてないから」
「…………」
逃げるための、先手を打った。
彼は変な顔をしたけど、曖昧にうなずいた。
「あいつが一方的に、なまえのこと好きになったってだけでしょ。わかってるよ」
「……」
ちょっとだけ、なまえがおかしな顔をする。
携帯を取り出そうとしたのか、ポケットに手を入れかけ、それからゆっくりと手を引き戻した。
その行動の意味におれが疑問を持つ前に、首を横に振る。
「何?」
「……、……」
「……」
言おうとしていることがわからなかった。
言葉がない。
筆談をするための道具がない。
なまえの笑顔がない。
手を伸ばせばすぐ届くほどの距離にいるはずなのに、深く深く隔てられている。
わからないというその事実が、ただ痛くて悲しかった。
「……わからないよ」
滑り出た言葉に、たれがちの優しい目が、大きく見開かれた。
わからないと口にすることが嫌で、おれは極力その言葉を使わないようにしていた。なまえに悲しい顔をさせるのが嫌だった。
本当に、そうだっただろうか。
「……」
なまえはポケットに手を入れて、今度はちゃんと携帯を取り出した。
ちょっとだけ戸惑ってから、指が動いて文字を入力していく。おれはそれをただ待った。
何度か指は止まったけど、最後まで打ったらしい。
携帯を渡されて、表示された文に目を通す。
『木村のこと、悪く言わないで。相談したのは僕だから』
知らず、携帯を握る手に力がこもった。
あいつは悪くない。なまえが相談しに行ったから。
なら、相談しに行ったなまえが悪いのか。それも違う。
そんな原因を作った、おれが悪いだけ。
わかったよと心にもない言葉を返して、携帯を差し出した。
彼は携帯を受け取って、再び指を動かした。
先ほどよりも早く動いて、またおれの目の前に白い画面が差し出される。
『どうして、僕のこと避けてたの』
「……大したことじゃないよ」
眉が垂れ下がって、口がへの字になった。それから、う、そ、つ、き、と4回唇が動く。おれは苦笑した。
「嘘じゃないって」
一緒にいていいのかと、迷ってしまっただけ。
受け入れられるのが自分だけだと思い込んでのぼせ上がって、いざ現実を目にして、怖気づいただけ。
彼が話せないままでいることを、無意識に願っていた自分に。
カウンセリングを受け始めたことにショックを受けたのも、木村という人間が現れたことに怯えたのも、きっとそれが原因だった。
自分が傷つきたくない卑怯者。
心を砕いた人がいなくなる恐怖が忘れられなくて、今度こそはと入れ込んで、結果傷つけてしまった。
自分が傷つきたくないばかりに。
木村の言っていたことは当たっていたのだ。
「なまえ」
「……」
「ちゃんと大好きだから、安心してよ」
ごまかすようなその言葉に、なまえの目は悲しげにゆがむ。
その目をさせたくなくて、ずっとそばにいたくて、だから未来を変えたのに。
「……、」
確定してしまった数秒先の未来を回避する術はなかった。
なまえの手がそっと、彼の耳に伸びる。
かち、と乾いた音を立てて、耳から何かが外れた。
手のひらに転がった二つの赤いピアスに、間抜けなおれの顔が映りこんでいた。
じん、と声なき声が聞こえた気がした。
「……、……」
しばらく、きょりをおこう。
いつものように笑ったなまえは、おれの贈ったピアスをおれの手に渡して、おれの額に優しくキスした。
そして踵を返して、静かに屋上を出て行った。
笑みの消えた彼の、その腕をつかんで引き止めることさえ、できなかった。
お題:確かに恋だった
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