□接触禁止令
泣きながらもう嫌だと懇願する菊地原を無視して、気絶するまでやり続けたのがよくなかったのか。
朝、なかなかベッドから起き上がれない菊地原に、俺はとある宣言をされた。
「今日から一か月、ぼくに触るの禁止」
「は?」
「セックスもキスもハグもダメ。むしろ半径5m以内に近づくな」
枕から顔をあげた菊地原は、額にうっすら青筋を浮かばせながらそんなことを言う。
またまたあ、と軽く流そうとしてみたが、菊地原の顔はいつになく本気である。
やばいこれガチなやつだ。
「きく、」
「触ったらその時点で風間さんに言いつけるから」
「あ、ハイ」
伸ばしかけた手をさっとひっこめる。だらだらと嫌な汗が背筋を伝った。
風間さん、別名風間隊セコム。菊地原の物言いによっては俺の人生が終了する。生命的な意味でも、社会的な意味でも、精神的な意味でも。
かくして、俺の一か月我慢生活が始まった。
学校は菊地原が進学校で、俺が普通校なのでまあ、いつもとさほど変わらない。
だけど、いつもなら一言だけでも返事を返してくれるラインが今日は既読スルー日和だ。
まだ禁止令を出されて数日しか経っていないというのに、エベレストで遭難した並に泣きたくなってきた。
自分で言うのもなんだけど、もともと俺には我慢がない。
その我慢がない俺がことに我慢のきかない菊地原関連のことを一か月も我慢って、ああもう我慢がゲシュタルト。
机に顔を伏せてさめざめと泣いていると、背後から肩に手を置かれた。
振り仰げば、佐鳥と時枝の広報コンビがいる。表情が妙に生暖かいのがやりきれない。
「佐鳥……時枝……」
「みょうじ、どんまい」
「うわ佐鳥超腹立つ。英語当たれ」
「今日は当たんない日ですぅー。まあ菊地原頑固だしねー、一か月頑張って」
「ファイト」
「うっせー……」
この口ぶりから察するに、菊地原から連絡が来ているようだ。多分ぼくに近づけるなとかそういう感じの。俺には既読スルーのくせにちくしょう。
とりあえず腹が立ったので佐鳥の髪をぐしゃぐしゃのもさもさにしてやった。もちろん八つ当たりである。
「時枝ー、なんか時間進めるような裏技ってないかな……」
「おれドラ○もんじゃないよ。残念だけど、一か月待つしかないんじゃないかな。理由は分からないけど、多分みょうじが悪いんだろうし」
「ですよね……」
さらりと言われたけど、確かに俺が悪いからどうにもならない。うん、今度からもう少し人の話を聞くことにしよう。だから早く一か月、過ぎ去ってくれ。
「……時枝と菊地原って身長大体一緒だよな」
「ちょっと! とっきーのこと傷モノにしないでよ!」
「賢、いきなり話が飛躍してるから」
本部でも菊地原に会うことはなかった。
というか会っても逃げられ、半径5m圏内に近づこうものならばどこからかスコーピオンが飛んでくる。トリオン体だったからいいものの生身なら俺死んでた。
とにかくそんな調子で一週間が過ぎ、二週間が過ぎ。
深刻な菊地原不足を抱えつつも、俺はどうにか生きていた。
だんだん悟りを開けるようになり、ひとり悶々としているよりはと、俺は滅多にやらない部活の助っ人やら合同訓練のサポーターやらを引き受けるようになった。
別のことで頭を一杯にしていたほうが、菊地原に触れない寂しさを紛らわすことができるからである。
まあ半分くらいはいつでも菊地原なんだけども。
その日も、人手が足りないから、と東さんに頼まれ、ボーダー本部の合同訓練室へと向かっていた。
俺と同じく訓練に向かうやつや、楽しそうに会話しながらすれ違う友達とかカップルとか。あと二週間たてば再び菊地原に会えると自分を励ましながら、資料室の近くまで来た、その時。
不意に開きかけた倉庫から伸びた腕が、俺の隊服の裾を掴んだ。
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