そんなのいやだよ


街灯がきれかかった道をひたすら走る。

プリントたちを小脇に抱え、人とも滅多にすれ違わずに。

みょうじさんの家は住宅街の、少し奥まったところにある。
近道しようと、誰かの家の塀に飛び乗って、平均台よりも細いその上を駆け抜けた。

頭の中で、二宮さんが言っていたことがぐるぐる回っていた。

『人間関係だって、こじれたらそのまま修復の努力なんかしやしない。その意味をお前の残念な頭でよく考えてみろ』

俺はバカだから、頭のいいみょうじさんが何を考えているかなんてわからない。今俺が彼に抱いている気持ちと、みょうじさんが同じ気持ちかなんてわからない。

だけど、このまま何事もなかったかのように終わってしまうのは嫌だった。

謝りたいことも、話したいことも、伝えたいことも、まだまだたくさんあるのに。

塀を飛び下り、大きな木を植えた家の前を通り過ぎて、更地になった土地を横切って。
ようやく、最近珍しい瓦ぶきの屋根が見えてきた。

家の前まで来て、乱れ切った呼吸を整える。窓を見ると、まだ電気はついていた。

大きく深呼吸し、震える指をインターホンの前に。

「……ッ、」

ぎゅっと目を閉じて、黒いボタンを押し込んだ。
小さく、機械音が鳴る。みょうじさんが出るまでの間が、ずっとずっと続くかと思うほど長く感じられた。

まだそんなに期間も経っていないのに、懐かしく感じる声がする。

『はい』

「……あ、の、犬飼です……」
『は? いぬか、……え?』

珍しく、慌てたようなみょうじさんの声。
にわかにがたがたと騒がしくなって、通話は切られてしまった。

そのことにひどく心が痛む。痛める権利などないと知っていても。

プリントだけ投函して帰ろうかと足を向けかけたところで、がちゃん、と開錠する音が聞こえた。反射的にドアを見ると、そこには、顔全体に痛々しい傷痕を残したみょうじさんがいた。

目を見開き、口を少し開けているその表情は、見たことのないもの。

何を言えばいいのかわからず、また向こうも何も口にしなかったから、しばしお見合いすることになった。
数分ほど黙って、俺はようやくプリントの存在を思い出した。唾を呑み込んでから、黒いクリップでまとめられた紙束を差し出す。
みょうじさんは、俺の顔と紙束とを見比べた。

からからの口をどうにか動かして、用件を伝える。

「これ、……渡すの忘れたって、二宮さんが」
「ああ……。悪い、ありがとう」
「ううん」

俺の頭をなでてくれた手が、何度も慰めてくれた手がそれを受け取る。
中を確認しているみょうじさんに、意を決して聞いてみた。

「あのさ、ちょっと、話したい。……中、入ってもいい?」

ぱち、と一回瞬きして、みょうじさんは気まずそうに中を見た。
俺もちらりと玄関先をのぞき込むと、女性の笑い声がした。それを聞き、彼は大きくため息をついて、俺に向き直る。

「……今ちょっと、面倒な先客がいてな。悪いことは言わないから、帰った方がいい」
「……そっか」

玄関に見えた、黒いハイヒール。
あの女、なのだろうか。

今。言われた通りに帰ったとして、再びこの人の前に立つ勇気はあるだろうか。

俺の残念な頭でもわかる。答えは「NO」だった。
それがわかったから、俺は食い下がった。

「じゃあ、今でいい。少しだけ、聞いて」
「……なんだ?」
「俺ね、俺、……おれは、」

言え。言ってしまえ。

たとえどんな答えでも、それは俺が受け入れるべきもの。
誰かに当たり散らすものではなかった。

そんな当たり前のことに気が付くまで、ずいぶん時間がかかってしまった。

そして、それを俺が理解するまで、ずっと黙って見ていてくれた彼に、伝えなければならない思いがある。


「俺、みょうじさんのことが好きだ」


その時のみょうじさんの顔を、俺はきっと、一生忘れないだろう。

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