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追いかけてこない。

追いかけてこない。誰も、少年のことを追いかけてはこない。
ただそれだけを胸に一つ確信して、少年は森の中をかき分け進む進む進む。肩甲骨の辺りまで伸ばされた髪を振り乱し、むき出しの肩や足は泥にまみれ、靴も履いていない足の裏は既に踏みしめた石や枝に切れ一歩を踏み出すごとにずきずきと確かに痛みを訴えてはいるのだが、それでも少年がその歩みを止めることはない。息は上がり切っている。それでももはや走っていると例える事すら躊躇われるような醜態をもって、めちゃくちゃに少年は走り続けていた。それこそ何かに追われているかのように、少年の走りは逃げるもののそれ。それでも。
それでも、誰も少年を追いかけてはこない。

少年は逃げる、それでも、だれも少年を追いかけてはこないのだ。走る走る走る、よろめく、駆ける転びる、息を吸う、吐く進む進むすすむすすむ……

………

……


ベンチに座り込みうとうとしかけていた男は、足元にひらひらと舞い降りた桜色の破片に気が付き顔を綻ばせた。上を見上げれば満開とまではいかずとも八分には咲きほこる桜の木を見つけ、ああ春だなあなどと呑気な感想を頭に浮かべてさらに微笑む。
春はいい季節だ。風は柔らかく日差しも穏やかで、命の暖かみを全身で感じられる。
男が思うに、きっとそれは厳しい冬を超えた命が土から顔を覗かせる季節なのだろう。啓蟄の季節という言葉にあるように、命が芽吹き目を覚ますその季節を、数ある四季のなかでもことさらに男は愛していた。

「芽吹様!」
「!」

男が顔を上げたのを見計らったように公園に響いた声、それに反応し男は腰を上げて軽く辺りを見渡した。
では、男の名前は芽吹というらしい。男には珍しい長い髪はどこか胡散臭さを男に与えては居たが、それ以上に眉尻は下がり目元口元には隠しきれない人の好さがにじみ出て――何も彼のことを知らない初対面の人間にも彼のことをお人好しそうだと言わしせしめる、そんな雰囲気を持つ男だった。
彼は直ぐに公園の中に声の主を認めると、もともと柔和な顔立ちのその顔をさらに緩めて相手のもとへと歩み寄った。人影の数は芽吹を抜いて二つ。もともと待ち合わせをしていたのだろう、声をかけられたことに対して男の表情の中に戸惑いや疑問というものはそこには感じられない。

「やあ、このはちゃん。久し振りだね」
「お兄様、お久しぶりです。お変り無いようで安心しました」

男が歩みを寄せた二人分の人影の内、小柄な方が胸に手を当てて笑いかける。胸元にたらされた一つ編みの茶色の髪が小さく揺れ、それが記憶のなかに残るそれよりも随分と長さを伸ばしていることにどこかまぶしい心地を覚えて男は言う。

「このはちゃん、随分と大きくなったね」
「ふふ、当たり前ですわ。もう十年以上になるんですもの。お兄様が家を出てから」
「ああ、もうそんなになるのか。兄さんはどうだい?」
「兄は…森羅は、相変わらずの堅物で。お兄様の柔軟さを少しは見習ってほしいものです」
「まさか、そんな!」

世間に圧倒的影響力を持つ大家、その時期後継者である兄がそこから逃げ出した自分のようなちゃらんぽらんで言い理由があるものか!男は苦笑しながら否定した。
それに応える少女の笑顔は、例えるなら可憐。それだけは幼いころの印象と変わらないことに男は一人納得して大きく頷くと、次に人影の内もう一人へ視線を止めた。

「それで、ええと、君は……」

可憐な見た目の少女に比べ、こちらは全体的にすらりとした体躯の女性である。黒いスーツに身を包んだ姿は、少女がカジュアルな衣服に身を包んでいることもあってより女性のシャープな印象を際立たせている。
しかし、それでいてどこか気配が薄い。ぱりっとした黒スーツに黒髪という格好は確かに公園という場にはそぐわないものの、その上でしっかりと場に溶け込み、隣にいる少女の陰に徹している。

「ああ、紹介が遅れました、私の今のボディーガード兼秘書になります。折田というの」

少女が笑顔で示すと同時に、女性の体が丁寧に折れ烏の濡れ羽のような黒々とした頭が男へと頭頂を向けた。綺麗で無駄のない、誰の目が見ても文句ない一礼である。

「お初にお目にかかります、折田と申します」
「はじめまして、僕は芽吹と言います。妹をいつもありがとう、ええと……折田ちゃん」
「……」
「うん?」
「いえ。秘書として当たり前の責務を果たしているに過ぎません。……芽吹様の話は、かねがね伝え聞いております」
「あ、そう?あはは…」

乾いた笑いを漏らした男は照れくさそうに頭をかくと、はあと一つため息をついた。
男が自分の過去を考えてみたとき、どんな噂をされているのか考えるのは心苦しいものがある。そこに自分があまりいい出来の息子ではなかった自覚があるだけに、その上家出同然に家を出て以来顔を合わせることもなかったというのだから、寧ろいい話をされていると判断できる理由がないぐらいなのだ。
すわどんな話をされたのだろうと男が思考を沈ませかけたとき、それに釣られたように声を暗くした少女が口を開いた。

「…申し訳ありません、お兄様。急に連絡を入れてしまって」
「え?いや、いいんだよそれは!今日は仕事も休みだしね」
「でも、驚いたでしょう」
「そりゃ、十年来連絡のつかなかった妹から急に連絡が来て、明日一日会いたいだなんて言われれば多少はね。電話じゃいけなかったのかい?」
「ええ、久しぶりに顔を合わせることが許されたのですもの。話したいことがそれはそれはもう、沢山あるんですから。それに、……電話口では、少々…憚られる話も…」
「え?」
「………」

少女は一旦そこで口を閉ざすと、躊躇うように目を伏せた。そのまま言葉を選びなかなか切り出せない少女に、一方男はというと呑気なもので、きょとんとした顔で首をかしげている。
事情を把握できていないのだから当たり前と言えば当たり前だが、それにしても男の見た外見には程遠い落ち着きの無さが際立つ仕草であることに違いはない。この場にいるのは男とその妹、少女の秘書たる女の三人のみであったが、もしも他に彼を見ているものがあれば人によっては眉を潜めたかもしれない。何より彼の父と兄がそうであった。
状況を理解できない男を置いて、十秒、二十秒…刻は滔々と流れる。そして、

「…お兄様っ!」

Pipipipipipipipipi……

そしてようやく少女が覚悟を固めた瞬間、まるでコントのようなタイミングでその場に電子音が鳴り響いた。
少女があっけにとられた表情で動きを止めるも、男は携帯はサイレントにするのが常であり、また秘書を自称する彼女も主人のいる前でこのような失態は犯さないであろう。
「…ああ、もう!誰ですか、この大事な時に!」
となると犯人は自然と知れたもので、少女は舌打ちを一つ打つとその上着のポケットから携帯端末を取り出し画面を確かめた。そしてはっとしたように口元に手を当てる。「あっ……」思わずと言った様子でちらりと芽吹に視線を移す。

「いいよ、出てあげて?」
「ありがとうございます」

芽吹の言葉に目礼し、少し離れてから少女は端末を耳に当て、相手と会話をし始めた。
どうやら彼女にとってかなり気心の知れた相手らしく、軽い口論のようなものが聞こえないでもない。口元を隠していることもあって芽吹にはその会話がどんなものだか推し量ることは出来なかったが、それでも、電話を終えた少女の顔を見ればどんな用件だったかというのはなんとなく予想できそうなものだ。

「……」
「ふふ。このはちゃん、仕事が入っちゃったんだよね?」
「はい。……申し訳ありません…無理を言って来て頂いたにも関わらず…」
「いいんだよ、気にしないで」
「すみません。……では、お兄様、一つだけ、これだけお話しさせて頂いてお暇させて貰います」

何だろうなと内心再び顔を傾げる芽吹に、真摯な目で向き合い少女は口を開いた。
電話の前に覚悟を決めていたこともあり、重い口を開いたという様子ではない。ただただ真摯な目で、声色で、それを男へと語り掛ける。

「……お父様が、」
「父さんが?」


「お父様が、お亡くなりに―――」


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