人間の体のおよそ七十%は水分だそうで。つまり私はひとである限り水分を一定量取らなければその内に干涸びて死んでしまうのだけれど、その一定量は何もこんなお高いもので取らなくても良いんじゃないかなぁ。手の中でゆらゆらと乱反射する液体を眺めながらそんな事を考えていると、その挙動を不思議に思ったのだろうか、目の前のぱっちりとした瞳がこちらを覗き込んできた。幾度か瞬くと同時に長いまつげが空を切る。メイクばっちりだ。今日も気合いはいってんなあ。
「美味しい?」
 正直まだ口をつけていないだとか、あれだけこちらをじろじろと見つめていればわかるだろうにだとか、そもそも人に出されたものを不味いと言うわけが無いだろうだとか色々思うところはあったけれど、事実匂いは良かったので適当に頷いておく。「良かった!」途端にふわっと花が咲くように綻ぶ顔を眺めながら、私はここで初めて口をつけた。ミルクの入ってない紅茶独特の渋味が口をつく。
 美味しい、と素直には思えなくて、砂糖の甘さと(甘いなぁ)、紅茶の渋みと(渋いなぁ)、なんだか高級そうな香りを(美味しいんだろうなあ)口の中で転がした。
 敢えて感想を言うなら、飲む前に紅茶の名前を彼女に聞かされた時に感じたのと同じ、値段高そうだなぁと、ただそれだけ。なんとかウェールズとか言ってたっけ…細かな味の違いなんて私のような凡なお子ちゃまにはわかる訳も無くて、だから、本当は彼女も私じゃなくてもっと別の人に飲ませれば良いのだ。そう、例えばこないだから彼女に妙に親しげに話し掛けてくる王子様みたいな人だとか。イケメンだし性格いいし、成績優秀。この子がどうしてあんなに邪険に扱うのか理解しがたいところはある。優しくしてあげればいいのに。二人で並んで話している姿は、話の内容に目を瞑れば、お似合いの一言で全て表すことができる。
 そんな他愛ない考え事をしながら、もう一口傾けた。私を選んで呼んで淹れてくれた人に対するには、ちょっと失礼な考えだったかな。目の前の彼女は相変わらずそのぱっちりとした瞳でこちらを見つめている。
「そう言えば、」
「うん?」
 小首を傾げながら聞き返されて、そこで今自分が口を開いていた事に気が付いた。無意識の内に口に出していたらしいそれを、促されるまま続ける。
「大したことじゃ無いんだけど」
「うん、なあに?」
「あんたさ、緑茶の成分票、見たことある?」
私の質問の意図が掴めなかったのだろう、形のいい眉を寄せて彼女が言った。「ごめんね、ペットボトルのお茶、買ったこと無いの。」
「Oh…」
 まさかの斜め上の回答にブローを喰らって、世界観の違いにうちひしがれる。流石上級の金持ちは違いますわ…
「うん、でもそうね、飲んだことなかったんだ、私。今度買わせてみようかな」
「や、そこまでしなくていいよ。あたし今持ってるし」
 初めて高校生の時に見つけてそれから妙に頭を離れない緑茶の成分表示。鞄のジッパーを開いて取り出したそれには、水と、ナトリウム、それから入ってないと言っても良いぐらいの気持ち程度のビタミンCが表記されている。私がテーブルの上に出したそれを除きこんだ彼女は、やはり花の綻ぶ可憐な笑みを浮かべる。
「どうしてそれで緑になるんだろうね」
「ね」
「パッケージが安っぽくて余り美味しそうには見えないけど、美味しい?」
「……それなりに、ね。でもまあ、それなりの味にしても、飲んでまえばこのやっすいお茶は私の体に入ってるわけだ」
「そうだね」
 そう。この、一本九十円の安いペットボトルの緑茶でも、それぐらいは。私の体に入っている、じゃあ。
 じゃあ、この気取った紅茶の、中身の値段の価値の、一体どのくらいが、私の物になっているんだろう。この紅茶と、あのペットボトル入りの安っぽいお茶、その価値の違いに見合うほどの、取り入れるべき何かがあるのだろうか。
 こんな事を、紅茶の味の違いも判らないくせにくどくどとこんなことを考えてしまう辺り、つくづく私にこんな宜しい紅茶を飲むような資格は無いのだとよくよく思う。こんなお茶は、その価値をよくわかる人間が、素直にその味を楽しめる人間が飲むべきで──そう、言うなら、目の前の彼女のような。彼女に楽しげに話しかける彼のような。
(ああ。)
 世界の違いに、くらくらとした。自分で考えておいて、何を、という話だけれど。
「──確かに、価値はないかもしれないね」
「うん?」
 今度は、私が聞き返す番だった。
「この紅茶について色々考えてたんでしょ?」
「う、…ん」
「どうしてわかるのって顔、してるね」
 にこり、細める目はまるで猫のようだ。
「わかるよ。だって貴方のことだもん」「…え?」

「貴方のことなら、なんでもわかるよ。」

 ぞくり、と、背筋が粟立つ感覚。これが何に由来するものかは分からない。分からないまま、彼女の猫のような笑みを、ただ見つめることしかできない。猫に睨まれた鼠はこんな感じなのかもしれない。もしくは蛇に睨まれた蛙とか…彼女を蛇なんかに例えるのは聞く人が聞けばすごく怒りそうだけど、でもこのひたりとした視線だとかが、すごく、ああ、
「だからね、例えこの紅茶に貴方が価値を見出だせなかったとしても、私は、この紅茶を、貴方が飲んでくれてると、嬉しいなあー…」
「う、れ…しい…?」
「うん。」
 それ以上はなにも言わず、彼女は笑って、紅茶を傾ける。赤い赤い液体。赤。愛の色。情熱の色。欲望の色。
「だからほら、ね。もっと飲んで?」
 どきりと心臓が跳ねた。彼女からぱっと目を逸らし、手元のカップを傾ける。味もよくわからないままに空になったカップに、くすくすと耳を擽る笑い声と共に蕩と注がれる甘く渋い液体を見つめながら、やっぱり敵わないと私は一つ息をついた。
 私にはこの紅茶の価値は分からないけれど。それでも、誰かが喜んでくれるなら、もうそれでいいことにしよう。



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20130420_初出
20140514_改稿
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