手紙


 かつての親友Tの葬儀に参列しながら、私は彼の突然の死を無味乾燥とした気持ちで受け入れていた。
 共に過ごした啓蟄の日々に対する憧憬も、失った甘い日々に対する渇望も、彼に対する理不尽とも言える焼けつく思いもそこにはない。私達を断絶せしめた例の一件当時には彼の存在に対して胸をかきむしらんばかりの怒りや嫉妬に燃えた日々もあったとて、あれから既に十九年、そう、私たちが道を違えた日から実に二十年近い歳月が経っているのだ。私も今は妻子を持つ一人の社会人で、彼とともに過ごした日々よりも、それ以外の時間が占める出来事の方がずっと大きくなってしまっていた。ようするに、私の中で彼との関係は、完全に過去のものとなっていたのである。
 それでも、彼の身に一体何が起こったのかという点については、幾ら私が薄情な人間だったとしても多少の興味はあった。喪主である彼の父親はそのことについては多くを語らず、葬儀に訪れた他の人間も彼の事情については詳しくを知らないらしい。学生時代の私と彼の中の良さを知っていた何人かが尋ねてきたが、私が何も知らないことを知ると残念そうに去って行った。
 聞けば、彼の死因はどうやら人付き合いをこじらせた末の自殺らしい――それは彼の親族らしき人びとの口から耳にした話だったが、それが事実にしろ野次馬根性から来る根も葉も無い噂だったにしろ、その話にあいつならやりかねないという妙な現実味を感じたのは確かである。寡黙にして生真面目だった彼は世渡りというものがとことん苦手で、高校を卒業するまではよく周囲との間を取り持ってやったものだった。優しいといえば聞こえはいいが極端に気の弱い男で、卒業した後は進学し教鞭を持ちながら作家もどきのことをしていたと噂に聞いていた。
 私が少しずつ彼のことを思い出し始めている間にも式は滞りなく進み、告別式の段階へと入った。配られた花を手向けるべく列に並び、私の番が来る。手向けの花を手にした私はそこではじめて棺の中で眠る彼の姿を目にし、微かに息を吸い込んだ。彼の胸の内、まるで抱かれるように添えられた一株の鉢――鈴なりの如く小鐘に薔薇色の花をつけたそれに背筋がぶわりと粟立つ。同時にうすぼけたままの青春時代の記憶がクリアになり、当時の生々しい感情が鮮やかに息づき始めるのを感じた。私は直感した。T、彼は彼女のために死を選んだのだ――二十年前、私たちが道を分かつ決定的な原因となったあの女のために。
「馬鹿な奴め」
 気が付けば私は思わず呟いていた。彼女を巡る騒動において、私とTはまるで一本の主流から別れた支流のようであった。私も彼も彼女に選ばれなかったことには変わりなく、たとえ彼が死してもその関係が変わることはないというのに、今更なんのためにTは死を選んだというのか。
 学生だった頃、私たちは常に三人で行動を共にしていた。私とT、それから草鹿という女の三人だ。学力で言えばTが一番秀でており、社交性で言えば私が突出していた。さて草鹿はというとそのどちらも中途半端ではあったが弁が立ち、なによりその年頃の少女にしては一人あか抜けた容姿を持っていた。その外見を薔薇をとかした水で彩色したようなとTは例えたが、当の本人はというととても気恥ずかしそうにしていた事を覚えている。何をこじゃれたセリフをとからかってやったが、しかし当時の私から見て、そのたとえはなかなか的を射ていた。彼女はどこか外国の血が混じっているようで、風を孕んだ髪は日に透けよく輝き、体の発育も良かった。下心をもって付き合っていると思われることは当時の私にとって大層な屈辱であったためけして表出すことはなかったものの、しかし彼女のその魅力が私とTを引き付けたのは事実である。
 私たちは青春の一番輝かしい時期を共にすごし、笑いあった。人付き合いの悪いTのために私と草鹿は同じように尽力して周囲に与える印象を上げてやり、また私の要領の良さから来るいい加減な部分を、草鹿は文句を言いつつ、Tは黙ってフォローしてくれたものだった。私とTがひどい喧嘩をしたときには草鹿が泣いて仲裁をし、Tの心得違いから草鹿を拗ねさせたときには私がTに発破をかけてやり…言葉は尽きないが、まるきり方向性の違う私たちは、そんなふうに離れることなく過ごしていた。

 卒業に際しても、その友情が壊れることはなかった。
 私とTは違う大学への進学が決まり、草鹿は家庭の事情もあり就職の道を選ぶことになり、徐々に心までが離れてゆくのだろうと、言い表せないまでもわずかな不安を、みなが抱えていた。そのような折に草鹿が言い出したのだ。
「たとえ以前のように頻繁に会うことが敵わなくなったとしても、自分たちは変わらぬ友情を誓い合いましょう」
 私たちをつなぎとめるものは、やはり草鹿なのだという、信仰に似た高揚感とともに私は約束をした。そして当時の美しい友情は永遠のものとなった。

 大学に入ってしばらくするころには私も大学における要領の良い立ち振る舞いを覚え、地元の草鹿の元へ何度か足を運ぶようになっていた。草鹿はあまり質の良くない風俗店での稼ぎで身を立てており、すでにかつてのきれいな体でない確信は私の中にあったが、そのことで彼女を軽蔑したことは一度もなかった。私は別れた時のまま、あの溌剌とした彼女に触れるように草鹿に接した。しかし一点学生時代とは異なる事情がある。このころには私は私の下心を自覚しており、その事に草鹿もうすうすとは気が付いていたに違いない。卒業より私とTが会うことはなかったが、彼も同じように時を見ては草鹿の元へ通ってたことを聞くにおそらくTにしてもそれは同じだったのだろう。何故それを私が知っていたのかと言えば、靴だなの上に置かれた一鉢のばら色の花――エリカだか、ヒースだか言ったか――について尋ねた時に、それはT君がくれたものよと草鹿本人が言ったのだ。
「彼ね、たまにお金も送ってくるの。彼だって勉強をしながらとてもつつましい生活をしているのによ。ね、彼にやめるように言ってくれない?」
「あの野郎そんなことをしてたのか」
「だから、ね。私が言ったんじゃ聞いてくれないし…それに、貴方たち、ずいぶんと会ってないでしょう。私のとこにばっかり来ないで、たまには二人で話をしなさいよ」
 ああ、とか、うう、だか、とりあえずそのような返事を漏らして、私は草鹿の部屋を後にした。返事は返したがそのことについてTと話すつもりはさらさらなかった。勝負に負けたような、うまく出し抜かれたような、いうに言われぬ敗北感が自分から彼と連絡を取ることを拒否させた。焦燥感…私は草鹿に対しやましい心を抱いているが、それを彼女に露骨に表すまいと細心の注意を払っていたというのに…それではまるで、貧しい彼女を金で買っているようではないか。草鹿は気にしてもいない様子だったが、これがまるきり下心のない援助だったなら、どうして私に言わないだろうか。
 翌々週、私は煩悶とする気持ちを抑えきれず草鹿に告白をした。卑劣な元親友に彼女を汚されることを考えるだけで背中に、胸に、のどに、火を飲むかのような苦しさがやってきて、耐え切れなくなっての行動だった。玄関で靴も脱がず、私は彼女の手をひっしと握りしめ懇願した。
「草鹿、頼む、俺と付き合ってくれ」
 言われた草鹿はその時には驚いたようだったが、すぐに困ったように笑うと「からかわないでちょうだい」と答えた。
「本気なんだ。結婚でもいい、お前の将来の安息を約束しよう」
「どうしたの、急に。とりあえずお茶でも飲んで、落ち着いて…」
「今すぐに返事がほしい」
 彼女の煮え切らない態度に業を煮やした私はなおも追いすがる。ここにきて私の本気を知った草鹿は途端にうろたえ、その表情から笑みを消した。視線がうろつき、ちらりと一瞬止まったのを私は見逃さなかった。
「そんな、すぐになんて…無理だわ」
 鉢植え。視線の先に気が付いた私は、焦燥感に煽られ獣のように叫びながら彼女の腕をむちゃくちゃにつかみ上げた。悲鳴を上げかけた彼女の口をふさぎ、壁へと押し付ける。ふっ、ふうっ、と唾液とともに荒い息が私の左手の手の平に籠るのを感じながら、逆の手で彼女の衣服を乱暴に剥ぎ取り――そしてしばらく記憶は途切れる。気が付けば枯れた喉で嗚咽を漏らす草鹿を、まだ靴を履いたまま三和土で見下ろしていた。思わず後ろに下がった足が、点々と散らされた白いものを踏み、微かに滑る。まだ動悸収まらぬ胸で、私は彼女の顔を見れず立ちすくんだまま息をのんだ。
 私は逃げ出した。
 逃げ出したがしかし、その次の週になると何食わぬ顔で彼女の元へ足を向けた。見苦しい言い訳はしまい。彼女なら、許してくれるかもしれないという甘えた考えが私の中にあったのだ。情に深い彼女のことだ、たった一度の過ちでそれまでの友情をなかったことにはしないだろうと。そしてまた、同時に、彼女はけして私を許すべきではないとも思っていた。
 相反する心を抑え、彼女の部屋のチャイムを鳴らす。…返事がない。もう一度鳴らして、草鹿が出てこなかったら帰るのだ。そして二度と会いに来ることもあるまい。そう決意して二度目のチャイムを押したとき、扉は開かれた。彼女は何も言わず私を部屋に上げ、そして私を受け入れた。
 このような次第で、私はこの時、一時的にではあるが彼女を手に入れたのである。罪悪感はもちろんあったが、それ以上に私の心には、Tを出し抜いた高揚感や優越感があった。私はTに勝ったのだ!

 そして、三か月程したある日のことだった。
 草鹿が私に別れを切り出した。
「もう、部屋に来ないでほしいの」
 顔を伏せ、肩を震わせつ彼女はつづけた。
「これからずっと」 
 ショックを受けなかったといえば嘘になる。しかし、こんな日がいつか来るとは覚悟していたので、私は何も言わず彼女の部屋を後にした。私が彼女の部屋を訪れることは二度となかった。
 その後、私を抜いた草鹿とTがどのようになったのかは知らないが、彼女が死んだという話を聞いたのは、それからおよそ半年後のことである。一人ふらふらと歩いていたところを、前方不注意の乗用車に跳ねられてとのことだった。葬儀を行うという知らせを受けそこに駆けつけると、同じように慌ててきたらしいTがそこにいた。――彼は私の恥を知っているのだろうか――恐ろしくなった私は、彼の顔を見ることもできずにその場から足早で逃げ帰った。

 このような顛末をもって、学生時代より私とTの間を踊るように生きた彼女は、結局、死をもって私たちどちらのものにもならない道を選んだのだった。

 彼女の死を受けて、私はがむしゃらに勉強をした。
 一年、二年とすぎ、かなりの地力をつけた私は大手の会社に就職しそこでみるみる成績を伸ばして行く。七年ほどたったところで上司の勧めに従い見合いで結婚をしたころには罪悪感も薄れ、彼女の死はずいぶん遠いものとなっていた。
さらに長い時が経ち、私は子供も手に入れた。彼女が幼稚園に入り、卒園し、小学校に上がり、習い事を始め、四年生になり、――そして、私は彼が自殺したとの知らせを聞いたのだ。

――――――――

 葬儀のすべてが終わり帰途に就こうとした私に、これを、と差し出された一通の手紙がある。Tの母親から手渡されたもので、その表面には私の名前がTの文字で書かれていた。どうやら自殺というのは本当のことらしい。
 どんな断罪の言葉がそこに残されているのか、どんな批判の言葉が描かれているのか。帰りの電車の中、微かに緊張した手でその封を切ると、その内容に私は眉をよせた。そこには私が覚悟していたどんな言葉もなく、むしろ懺悔と謝罪の言葉だけがつらつらと書き並べられていたのだ。

『君は、僕をどんなひどい人間だったか、すでに知っているだろう。しかし、せめてもの謝罪の形として、ここに吐き出すことを許してほしい。僕は今から死ぬ。そのことは絶対に変わらないことだけど、せめて少しでも満足した気持ちで逝くことを許してほしい。
 あの草鹿の葬式の日、僕の目をちらりともみない、君のそぶりに僕は察した。君は、僕が草鹿と姦通したことを知っていたのだろう?姦通なんて言葉じゃ物足りない。僕は、くだらない一時の劣情で、彼女を強姦した。正直に言うと、君に草鹿がとられてしまうと思ったんだ。このことを、僕は君に詫びをいれることができなかったあの日から、ずっとずっと気にしていた。今思うと、なんてくだらない独占欲に身を任せてしまったのだと強く後悔している…本当だ、あれからおよそ二十年もの間ずっとあの日のことを考え続けていたんだ。
 草鹿が死んだね。あれは自殺だ。
 実は彼女は腹にこどもを持っていた。僕の子供だ。遺書がなかったから、また状況もあって事故だと思われていたようだけど。君にはいくら謝っても言葉は尽きない…なあ、O君。あの日、死んだ僕の娘は、生きていたら、今日が高校の卒業式なんだ。覚えているかな。彼女の言葉と、僕たちが過ごした日々を…』

 手紙はそこで終わっていた。今日初めて、私の胸に喪失感が去来する。頭をよぎる甘い青春の日々。なんということだろう、妻子を持った私は今から彼らの元へ駆け寄り無様に這い謝ることはできないのだ。
 私はこみ上げる苦いものを飲み下し、窓の外へ視線を逃がした。私の行動を最後まで知ることなく、私のことを信じたままに死んでしまったTのことと、すべてを忘れて新しい人生を送っている私のことを考えた。窓にはっきりと映る顔は幽鬼のように色を失っていた。

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