「なあ椿、君と結婚する女は幸せものだな」
「………は?」

 少女のふとした呟きに、聞かされた少年は怪訝顔だ。その呟きの内容のあまりの唐突さに、それまではどんな雑談にもかりかりという音を立てていたペン先が動きを止めている。

「…それはいつもの遠回しな皮肉ですか」
「ふっ!厭々、特に他意はないよ!本当にそう思ったからそう言っただけだ」
「お前のその言葉は信用がなりませんからね。」

 少年の言葉にも一理があった。なにせ少女は悉くにおいて皮肉的な物言いを好んだから、今回の突飛な物言いを少年がそのように受け取るのも自然な流れと言えただろう。与えられたものを何の疑問も挟まず享受するものに、自己愛に溢れた末の行動に、様々な可能性に目を向けない極狭的な見識に、彼女はいつでもその高笑いと「大変結構!」の枕詞と共に実に鮮やかかつ潤沢な皮肉を投げかけた。
 例えば「お前は女心を解していない」だとか。
 例えば「お前は勉強以外にすることはないのか」だとか――今回にしても、その簡潔な一言が表わす内容は文面の短さとは反対に数多ほど読み取ることが可能だ。しかし何も今言い出すような事でもあるまい、少年は来週末に控えた期末試験及びその先来る戦争の時への準備で若干鈍くなった頭で考えた。
 少年は生来徹底的に自らを苛め抜く気質を備え、また有り余る向上心と昇進意欲とを兼ね備えていたから、当然学業に於いて手を抜く等ということはあり得ない。高校生程度の授業内容であれば習ったその日からテストに向け完璧な暗記をするよう反復し体に叩き込み、大学受験勉強も中学卒業の時には既に開始していたような念入りという三文字がそのまま肉を纏ったような男だ。高名な進学校に於いても成績は常に上位を保ち、物腰が柔らかくどんな人間にも真摯に向き合う(ように見えている)と、性格にも非の打ちどころがない。運動の巧みさが人心掌握にどれほど効果的なことかも知っていた彼は運動方面においても手を抜くことはなかったし、これら以外のどんな物事にも真剣に取り組んだ、そんな男だ。
 無論こんな時期に少しの無駄な時間も取りたくなかったし、「お前は何もしなくてよいのか」という非難じみた、幼い意見を持たなかったと言ったら嘘になる。思ったままその不満は微かに態度に滲み出て――人間関係も抜かりなく全てにおいて最良を尽くすように心がけていた少年にとって、いわば唯一の例外が少女であった。

「そう嫌な顔をするな。綺麗な面が勿体無い」
「…それで、その発言の意図は?」
「意図も何も、さっきから言っているだろう。他意はないよ。お前に貰われる女は幸せ者だとそう思ったからそう言っただけだ。」
「………。」

 ならばただの雑談か。この女は妙に自分を構いたがるところがあるから今回もその延長線なのかもしれない、それなら深く考えるだけ無駄だというもの。相手にはわざと伝わらないように趣旨をぼかし意味ありげな微笑みで相手が慌てるもしくはいぶしがるもしくは疑問に思う…とにかく自分のことを考えているという事実に女という生き物がこの上ない優越感を感じることは身につまされるほどによく知っている。相手にするだけ時間の無駄だ。少年はそう結論付け、再び手に掴んだペンを紙上に走らせる。カリカリカリ…紙を挟んでペンが机と音を立てる。騒音の類は性に合わなかったがこの音は少年は嫌いではなかった。


「君は勉強は出来るし人付き合いは上手いし外見も整っており期待に応えるべく運動もできる。人はそれを才能と結論付けるかもしれないし努力の報果と見るかもしれない。おそらくそのどちらも合っていて間違いではない。これから君は順調に進学し俗的に言うエリート階級への道を進むのだろう。年収も高く社会的なステータスも高い。君はおそらく望んだ地位にいつかは必ずたどり着きものにするべき人間だ」
「………。」

…カリカリカリカリカリカリカリ…

「その時君の隣にいる女性はきっとおそらく幸せなのだろう。君はおそらく自分の望んだ女性を娶ることになる。そのために策を練り労を尽くし、君ほどの人間にそこまでさせるんだ。幸せに違いない」
「………。」 

…カリカリカリカリカリカリカリ…

「君にとって女一人を手に入れる程度の労力、さして大きなものではないかもしれない、しかし椿、君は世間的にも掛け替えのない人間だからね、きっとその程度の労でも女にとっては幸せなものに違いないよ」
「………。」

…カリカリカリカリカリカリカリ…

「だからね、椿。何の他意もなく、私はね、こう思うんだ」
「………。」



「―――君と結婚する女は、本当に幸せ者だ」




「………。」

 目の前、白無垢を見事に着こなしあの黒髪を見事に纏め上げた女が呟いた言葉に、男は微かに目をしばたたく。彼の鍛え上げられた頭脳はこの質問を幾年を経ても覚えていた。同時にその時の様子がまざまざと思い出され、柄にもなく動揺が心に広がる。

「……それは、いつもの遠回しな皮肉ですか」

 この結婚はあまり幸せなものとはいい難い。女にはこれから数多もの不自由な思いをさせることはあまりにも明確であるし、家柄の違いが産む軋轢と言いうものをかつて少年であった男はその人生のなかで嫌となるほど目の当たりにしてきた。この瞬間、厳かな雰囲気を出しながらも明るく栄華隠しきれないこの瞬間にも様々な懸念事があり、目の前の女の地位を陥れようとする意図は数えきれないほどに張り巡らされている。
 本当に「幸せ者」だ、その一言に、例えば「こんなところまで連れられてきてしまった」、例えば「世間的には幸せに見えるだろう」、ほかにはどんな意味が隠れているだろうか。誹りを浴びる覚悟はしていたが、どう見ても身を引こうとしていた女に対し恋愛結婚を無理に押し通した身としてはやはり身につまされるところがある。柄にもなく後ろめたい心を感じながら返した言葉は、くつくつとした笑い声によって返された。いつもの高笑いでないのは、こんな女であっても空気を読まざるを得ない場であったと考えるべきか。

「ふふ…厭々、そんな他意はないよ。そうだな、お前も大概ひねくれていた―伝わらないのなら、それはそれで浪漫があるというものだろう」
「……それはいったいどういう…」
「分からないのなら分からないで宜しい。考えてみれば、お前はいつでも、女心にだけは鈍感な奴だったからな」
「失礼な。それが夫に対する妻の態度ですか」

 それに分からないのは今も昔もお前の――とまで言いかけて男はふと思い至る。君と結婚する女は本当に幸せものだ――「君と結婚する女」とはこの場合誰のことか。

 思い返してみれば、いつでも皮肉と笑みを絶やさない女であった。怠惰に傲慢に偏見に憐憫に嫉妬に自己犠牲―そのほか思いつくありとあらゆるものをたたっ切って捨てた女であった。考えてみれば「愛」を謳うものに対しての当たりがことさら強く、ああ、そういえばあの時は試験期間前でこそあったものの、当時の中ではことさら平和な時期で、もしもこの考えが自惚れでないのなら、傲慢でないのなら、自己愛でないのなら、これはこの問いはきっと「そういう」ことなのだろう。

「……私は、お前のそういう存外可愛らしげのあるところに惚れたのかもしれませんね」
「煩いな。これでも色々と苦心していたんだ。…気が付くのが遅い」
「済みませんね。ひねくれているもので」
「言葉の薄っぺらさは、よくわかっている。この感傷が他人にとって切って捨てられるようなものであることも理解している。だから私は、」
「分かっていますよ。誰かに否定されたくなかったのでしょう。大した被害妄想です。お前のようなものを娶る男はさぞ苦労することでしょうね」
「…ふん、自覚はしているさ。嫌になったのならいつでもこちらから捨ててやる」
「辞めてください。お前のために諦めたものは決して少なくありません。それに、」

そういえばあの時期はことさら平和な時期で
数少ない静かな空間で安寧を感じ
もしもあの時の考えが自分だけのものでないのなら
傲慢でないのなら
自惚れでないのなら


「自分はいま、幸せだと。数多の皮肉は紡げてもその一言がどうしても言えないお前を私は可愛いと思ったのですよ」



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エンダァァァァアアアアアア
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