優しい地獄
パチン、と乾いた音が穏やかな日差しの差し込んだ室内に響く。刃先が瑞々しく伸びたその茎に食い込み、また一つ音を立てて切り裂いた。剣山には色とりどりの花が咲き乱れ、競い合うようにその色を主張する。紫、緑、白、赤、指先がその花弁に触れるたびに、そっと揺れた。

「まぁた、悪趣味な色の配置ですね…名前様」

「五月蝿いわね三郎…仕方ないじゃない苦手なんだもの」

僅かに不機嫌そうな顔をしてみせながら、名前は勢いよくバチンと茎を切り落とした。傍らで三郎がにやにやとその手元を見つめる。

「そんなんじゃ婚約破談になりますよ」

「もう!三郎はいつもそうやって意地悪なんだから!大体初めて会った時から生意気だし、老中に怒られたってしれっとしてるし!いつもその尻拭いするのは誰だと思ってんのよ、このわ・た・しなんですからね!」

「あはは、はいはい感謝してますって。名前様のお陰で何度クビを免れたことか」

「全く、必死に掻き消す私の身にもなって欲しいもんだわ」

大仰に
溜息を吐いて見せながら、八つ当たりのように余分な茎を切り落とすと剣山へと突き立てる。そんな名前の様子を傍目に、三郎は部屋の開け放たれた扉から見える青空に視線を向けて欠伸をこぼした。余りにも暢気な護衛に、思わず名前は呆れ返りながらもそっと笑う。


穏やかな、日々だった。


「それも…もうすぐ終わってしまうのね」

鳥の鳴く声が響く静かな空間に、名前の呟きがふと零れ落ちた。パチン、再び乾いた音がする。誤魔化すようなその響きが残響を伴いながら室内の静寂に紛れていく。三郎は押し黙ったまま、視線だけを名前へと向けた。

名前は、もうすぐ他国への嫁入りが決まっていた。この時代には珍しくもないそれは、政略結婚と呼ばれる類のものだ。不満も期待も、そんなものは持ち合わせていないし、持ち合わせてはならない。ただ、決められた通りの道を歩むのが、一国の城主の姫として生まれた名前の運命だった。そこに何の不満もない。三郎は、この城に仕える忍だ。だから、城を出れば、きっともう永遠に
逢うことはないのだろう。

「私が、一番初めに言った言葉…三郎は覚えてる?」

え、と三郎は唐突な名前の言葉に思わず顔を上げる。手にしていた花と鋏を下ろすと、名前は三郎を振り返り仄かに微笑む。まるで日の光に溶けてしまいそうなほどに淡く儚いその微笑が、焼け付くように網膜に残る。目を眇めながら、三郎は思わず手を伸ばしかけていることに気がつき、慌てて指先を握り締めた。喉がひり付いたように、言葉が出てこなかった。それを、無言と受け取った名前は少し眉を下げながら、再び花へと向き直った。

「城の忍組頭に三郎のこと紹介されて、今日から私の護衛で私の付き人になるから何でも仰ってくださいって言った時のこと、覚えてない?私あなたにこう言ったのよ、『私は寂しがりだから、いつも私の傍にいてくれますか』って」

くすくすと鈴を転がすような笑い声が零れ、懐かしむように名前の目元が緩んだ。

「そうしたら三郎は何て言ったと思う?」

悪戯っぽく三郎を見つめながら、名前が問う。記憶の
海を辿りながら、一番初めの記憶を掘り起こす。一番初めの記憶、まだこんなにも互いに気安くなくて、精一杯の表情でそう懇願した彼女へと、三郎が向けた言葉、それは。

「…私はあなたの影なのだから、言われなくてもいつだって傍にいます」

「なんだ、覚えてるんじゃないの」

パッと表情を明るくすると、名前は嬉しそうに瞳を細める。当たり前でしょう、と返した三郎に、唇を尖らせながら本当に生意気なんだからと名前が言う。あの日から、そうやって名前の隣でいくつもの日を過ごしてきたのだ。まるでぐるぐると絵巻を広げるように出会ってからの日々が巡る。

「私ね、三郎のあの言葉…本当に嬉しかったのよ」

ポツリと僅かな呟きが、まるで花に語り掛けるような声音で零れ落ちた。母親の身分が高くないせいか、名前は城でも随分と寂しい思いをしてきた。味方も何もないこの城の中で生まれ、そして結局は政治の道具として扱われる。そんな中で、名前にとっては三郎はまるで光だった。暗い城の中で唯一の救いで、支えだ
った。隣で一緒に笑い合ってくれるこの存在が何度も何度も名前を救った。

「本当はね…もしも叶うのならば、この城を抜け出して、三郎とどこまでも逃げ出してしまいたかった」

「…………」

「けれど、私の婚姻はこの城の命運も行く末も全てを背負っている。私だって、一国の姫だもの、そんな勝手なことできないの分かってるの。それに、三郎は優しいから、私がそう泣いて縋ったなら…きっと一緒に逃げてくれるってのも分かってるの」

鈍く光る鋏の柄を指先で撫でながら、名前はゆっくりと視線を外へと向ける。三郎に出会ったのも、こんな青い空の日だった。

「でも、三郎にそんな重荷は背負わせられないもの」

滑り落ちた涙が、音もなく花弁へと降り注ぐ。どうしようもない感情が、二人の間に満ちていた。喉元で蟠るこの感情を、吐き出してしまえたらどんなに楽なのだろう。けれど、それを言ってしまったら最後、何もかもが崩れ落ちる。誇りも体裁も立場も運命も、今まで築き上げてきた二人にあるすべてを投げ打つこと
になる。それが利口な選択ではないことは、お互いわかっていた。

けれど、それでも。
全てが許されるなら。
何を捨てても選びたい未来があった。


だから、


指先で零れ落ちた涙の粒を払いながら、名前は傍らの三郎を振り返る。もしも、この気持ちに応えてくれたのなら。その時は、三郎と生きよう。どこまでも。光となってくれた彼へ、持てる全てを差し出そう。

三郎の顔を仰ぎ見て、真っ直ぐに見つめ返す。

「ねぇ三郎、」

「…なんですか」

「私の最後のお願い、聞いてくれる?」

静かな声が落ちる。
伺い見るように、三郎が名前見つめ返した。


「三郎の本当の気持ちを、私に教えて」


諦めと期待と縋るような感情を込めた声が、三郎へと向けられる。最初で最後の精一杯の本心が、緩やかに唇から零れ落ちた。たった一つの願いすら口にはできない彼女の、精一杯のわがままだった。忍である自分は、自分の感情を口にすることもできない。名前の望む答えを自分は持
っているのに、それを口にすることすらできない自分自身が腹立たしい。突き刺さるように三郎の胸が痛んで、熱くなる。ぐっと押しつぶされるように苦しくて、決壊した感情の波が喉元へと込み上げる。

「………っ、」

衝動的に、三郎は名前のその柔らかな手のひらを引き、その身を腕の中に閉じ込める。ふわりと香る伽羅が鼻腔を擽った。いつもは、傍らで香ったそれが、今はこの腕の中にある。堪らなくなって、腕に込める力を強めた。はたはたと零れ落ちる涙は、雨のようだ。空知らぬ雨。




このまま、この腕に閉じ込めて、どこかへ連れ去ってしまおうか。私はあなたの影なのだから、離れられる筈がないのに。




真っ黒な感情が首を擡げて、燻る熱のようにじわりじわりと広がる。もうすぐ、寂しがりだと告げた名前の隣にはいられなくなる。笑う声も怒った顔も、全てが遠い誰かのものになる。その髪に頬を寄せて、そっと瞳を閉じた。


「でも、三郎にそんな重荷は背負わせられないも
の」



ふと三郎の脳裏にその言葉が蘇る。ああ、そんなの…私だって同じだ。私だって、あなたに不幸な選択なんてさせるわけにはいかない。

だって、私は。


抱き締めたその身体を離して、ゆっくりと膝を付く。離れられない指先だけが二人を繋げていた。指先を強く握りながら、三郎は頭を垂れる。


「どうか、」


掠れるような声で呟いて、名前へと、その偽者の顔で笑って見せた。



「どうか、幸せになってください…私の大切な姫様」



その言葉に、名前は緩やかに瞳を閉じる。一筋流れた涙が頬を滑り、名前の作り出した花の檻へと音を立てて零れ落ちる。繋がっていた指先が一度強く握り締められ、そしてするりと離れていった。


やがて淡雪が溶けるかのように、名前は静かに微笑んでみせた。


優しい地獄


もしもあなたへのが叫べたのなら、その掌を握り締めて、どんな地獄でも駆け抜けてみせよう。


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