ザシュッ

戦場で敵国の兵の首を斬るに似た音がして、男は何が起きたのか分からなかった。その次の瞬間、耳を劈く怒号のような悲鳴が響いた。果てしなく広く続く暗闇の中、誰の奇襲を受けたのかも分からぬままに男は奇声を上げて床を転がる。いっそ早く殺してくれ。そう願わざるを得ぬほどの苦痛だった。
不意にコツン、と何かが床を叩いた。
誰でもいい、早く、はやく。

「く、あは、大尉様ともあろォ御方がイイ格好じゃねェか!」

狂気に塗れた嘲笑。その主を朦朧とした視界の中では明確に捉えることはできなかった。ただ、その声と場に削ぐわぬ純白の雪を思わせる色だけがちら、と横切った。

「総計10万、ねェ。さぞ弱者を嬲り殺すのは愉しかったンだろォが、」

ーーこれは罰だ。
助けを請う男の声をもその者の快楽になりうるのか。それから数十分、獣のような咆哮を最期に地下牢は静まり返った。





* * * * * * * *


広大な大陸に位置する大帝国は、複数の自治区が成立していた。各々に長けた分野があり、武術や文学、表立って公開されていないが、魔術の類をそれとする自治区もあるとか。そんな中、『第七帝国』は圧倒的な戦闘力を有するとして有名な自治区であり、もはや帝国そのものになり代わるほどの力を持っていた。
その帝国の第一皇女、美琴はうら若き少女でありながら遠方の国にも名を馳せる名誉ある軍人であった。そして、その美貌は他国の皇子が見初めるほど。常にいくつもの縁談を抱えていた。
皇女の心を射止める者とは。誰もがそう噂していた。ところが、多くの人間が想像する彼女の華やかなそれとは程遠い恋を、彼女はしていた。

(……遅い)

扉が開くと共に黒衣を身に纏った細身の少年が現れる。

「ちょっと待ちなさい」
「……、皇女様直々のお誘いかァ?珍しいことで」
「また一人、ころしたでしょう。一方通行」

人離れした白髪に獣のような鮮血の色をした瞳の少年、一方通行。
彼こそがこの国の王であり、真っ当な人間としての生き方を捨てた者であった。

「人間なら毎日何万と殺してる。一人ごとき覚えちゃいねェよ」
「そういうことじゃない!あんたが、その手を汚してころした人間のことを言ってるの!」
「……」
「もうやめてよ、あんたが、そうやって、他人をころすのは、ほんとは、」
「黙れ」

優しさも同情も全てのものを拒絶する瞳と、首に突き付けられた短刀はひどく冷たかった。
一方通行が立ち去った後、美琴は床に崩れ落ちた。ぽたり、ぽたりと血の代わりに瞳から涙が零れ落ちていく。

(どうして、またあいつを救えなかった)

刃物を突き付けられても、傷付けられるなどと考えもしなかった。傷付いていくのは、彼の心だ。
王であり、また美琴と同じく軍人である彼は、自分の軍の兵に盗人や囚人を高い報酬を支払って雇っていた。当然、彼らはそれに食い付いてくるし、職も与えるというのだから名乗りでない者の方がおかしい。
元より人を傷付けることに心を傷めなかった連中だ。そうして兵を、軍を支配し、虐殺することに悦を覚え始めた頃に、裁きでも下すかのように彼自身がその手を血で汚していた。
それが悪を戒めるためなどではない、彼を、そして彼の過去を戒め、そして自分自身を傷付け破壊し尽くそうとする行為なのだと美琴が知ったのは最近であった。
共に育ってきたとは言え、彼の過去を知りえない美琴には手の伸ばし方すら分からない。それが歯がゆかった。

「お前も飽きねぇな」

聞き慣れた声に慌てて涙を拭う。
涙など悟られてはいけないとばかりに、さも何事もなかったかのように振り返った。
美琴と似た明るい茶髪の長身の男は、意地の悪い笑みを浮かべてこちらに歩み寄ってきた。第二皇子で、そして美琴の実兄の彼。

「何の用よ、垣根」
「昔みたいに『お兄ちゃん』でもいいんだぜ」
「だ、誰がっ……」
「あんな根暗な外道男のどこがいいんだか。せっかく俺に似て美人なのにつくづくもったいねぇ」
「ふん。その絶対的な自信、分けて欲しいわ。それにあいつのことなんか……笑うなバカ!」

美琴の言葉をのらりくらりと交わし、からかう垣根は、幼い頃から美琴の尊敬する人だった。武術にも長けていて頭も切れる。そして、どれほどの困難な戦いを強いられても眩しいほどの自信と誇りで戦い抜いてしまう強さ、それが眩しかった。

(一方通行も救えない私じゃ足元にも及ばない)

ふう、とつい溜息を零してしまう。

「ま、男なんて裸で押し倒せば堕ちるだろ。色気ゼロだけどな、お前」
「な、なんですってぇ!?ここで一戦交えても、」

と、その時「美琴様」と彼女を呼ぶ新しい声が響いた。普段は皇女らしく物静かに立ち振舞っているが、本来の好戦的な性格の美琴。
それを留めるに相応しい補佐役が、この少年、海原だ。ちなみに美琴は何かと落ち着いて大人びた雰囲気の彼が苦手だった。それ以外の事情もあるが。

「城内で鞘を抜かれて、また城を破壊されては困ります」
「うるさい。冗談も通じない堅物なの?あんたは」
「それでは先日、あなたの剣が城を貫いたということも冗談だったのですか。確かにあれには苦笑せざるを得ませんでしたが、そうでしたか」

初夏の風でも浴びているような爽やかな笑顔とはかけ離れた、皮肉を交える口振りがどうにも腹が立って仕方がなかった。おかしくて耐えられないといった風に喉で笑う垣根を睨めつけると、彼は肩をすくめてふらりと立ち去った。
そして、

「あんた、誰が遣わせてやってるか忘れたわけ?」

海原には自身の剣の切っ先を突き付けた。
補佐役である彼の主は美琴だ。当然、無礼な口を利くとは何事かとこの場で始末しても美琴を責める者は誰一人としていないだろう。

「忘れることなどありえません。刺客としてこの国に送られた自分の身を案じてお付として雇ってくださったあなたを」
「ただの気まぐれよ。……私はそんなに優しくない」
「十分お優しいですよ。今だって王を救えないことの無力さに苛立っているのでしょう」

美琴が海原を好いていない理由の二つ目が、美琴の隠していることを全てさらけ出してしまうからだった。そしてもう一つは。

「全て自分に委ねてくださればいいのに。自分はあなたを、」
「っ、あんたに守られるほど私は弱くない!侮るな!……もういい、後で部屋にお茶持ってきて」
「御意」

剣を突き付けようが、罵声を浴びせようが、あの少年は甘え方すら知らない幼子を愛でるような瞳で見つめてくる。それが美琴の苛立ちを誘うのだ。
優しくなどない、強さという剣を振りかざしているだけの大切な者すら守れない愚かな者に甘えは許されない。
海原をはじめとする部下たちは、皇女は自分に厳しすぎると評していることは彼女の知るところではない。

(こんなんじゃだめだ。私は、もっと強くならなきゃ)

自室とは反対の闘技場へと向かう。海原に気付かれれば、また咎められるだろうがそれでも構わない。美琴に呼応するように簪がちりん、と涼やかに鳴った。


一方、美琴を振り切った一方通行の元には海原と同じ、補佐役の者が訪ねてきていた。

「よかったの?皇女をあんなふうに退けて」

そういって妖艶に笑うのは、結標という娘だった。一方通行がそばに置いておくからには信頼関係で結ばれているのかといえばそうではない。彼らの関係は使える使えないで決まる、シビアなものだった。

「あの娘を傷付けたくないのでしょう?だから求めているのに突き放すような態度を取る」
「それ以上、胸糞悪ィことほざくならこの場でその首飛ばしてやろォか」
「あら怖い。せっかく諜報員からの情報を持ってきてあげたっていうのに」

事務連絡を一通り終えて、何やら思案し始めた一方通行の首に結標はするりと腕を絡ませる。
恋慕ではない、もっと無機質で本能的なものだ。本当に想う者には大切過ぎて壊してしまいそうで触れられない。だからそれ以外の誰でもいい、誰かと繋がっていたいという、ただそれだけの。
窓の外は曇り空が広がっている。一方通行は、人肌の温もりを背に感じながら瞳を閉じた。

一方通行、垣根、美琴の三人の思いはそれぞれに、一帝国の歴史ははじまる。





雨露に消ゆる燐火


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