その不審な女の名前は名無し。スケッチブックに書いてあった。
「わ、私は決して不審なものではありませんよ!?」
「自動販売機の上からそんなこと言ったって説得力なんかねェよ」
スケッチブックを拾い上げて砂を払うと、ぱらぱらと中を覗き込みながらため息を吐く。
それを見た名無しは自動販売機の上でわたわた暴れていて、不審者にしか見えない。
これが中年のおっさんならもう警察に通報されていただろう。
名無しが通報されなかったは若い女だったからだ。若さ故の過ち程度に見られたのだろう。
「降ります!今すぐ降りますから通報しないで!ワタシコトバワカラナイ!」
「どんどん不審者になっていってるぞ」
「えっ!墓穴!?」
スケッチブックを余程見られたくなかったのか、慌てて自動販売機から降りようとした名無しは端にスカートを引っ掻けて盛大に破っていた。
あーあ、と落胆したような声を漏らした名無しだったが、スケッチブックの方が気になるのか、破れたスカートを押さえながらスケッチブックを奪い取っていく。
「お前、設計士でも目指してるのか?」
「別に、目指してない。これは……その、趣味みたいな遊びだから」
気まずそうにスケッチブックを大きな黒いバックにしまいこむ名無しは、ごにょこにょと語尾を弱めた。
ぱらぱらと覗いただけだったが、有名な設計士が手がけた建物から今はもう消えかけている昔ながらの家まで丁寧に書き込まれているのだけはわかった。
絵が格別上手いわけではないが、ただのお遊びにしてはよく描かれている。そんな印象を受けた。
「学校に遅刻しちゃうからもう行かないとー」
わざとらしい台詞を吐き出しながら大きな黒いバックを肩にかけた名無しは、そそくさと逃げるように帰っていった。
時間的にはもう昼を過ぎている。
破れたスカートには心許ないセロハンテープが貼り付けてあり、スカートが揺れる度にテカテカと光っていた。
それからその公園で何度か名無しを見かけた。
特に用はなかったから話しかけはしなかったが、焼きそばパンを頬張りながらスケッチしていたのだけはよく覚えている。
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