「おいタイル屋」
背後から聞こえた声にビクッと肩が震えて、持っていた雑巾がべちゃっと床の上に落ちた。
バクバクと心臓が嫌な音を立て一気に嫌な汗が吹き出てきて、一瞬眩暈がした。
「…おい」
返事をするのを忘れていたせいか、ローの声がほんの少しだけ低くなった気がする。
「す、すみません。なにかありましたか?」
慌てて振り返ると、眉間にこれでもかと言わんばかりにシワをよせたローが、睨み付けるように名無しを見ていた。
「倉庫の掃除は頼んだがここは頼んでねぇよ。ボーッとしてんな」
「あ…すみません」
朝から記憶が乏しいが、ローの言葉は何となく聞き覚えがあった。でも何故今自分が雑巾を持って書斎にいるのかもよくわからない。
しかも目の前にはローの書きかけであろう設計図が広がっている。
それを自覚した瞬間、昨日のドフラミンゴの言葉が頭の中で反復した。
「失恋でもしたのか」
「してません。そもそもそんな落ち込む程の恋愛なんてしてませんから」
小馬鹿にするように笑うローに取り繕うように笑いながら雑巾を拾い上げる。
指先が未だにドキドキと脈を打っていて、少しだけ自分がしようとしていたことが怖くなった。
別に本気でローのデザインを盗もうと思ったわけではないし、弱小会社の平社員だからといって出世欲があるわけじゃない。今の生活や会社は気に入っているし、不満と言う不満は特にない。
それなのに隠れてこそこそ覗きに来たような行動をとってしまったのか自分でもよくわからない。
「それなら、ジョーカーにでも会ったか?」
逃げるように書斎から出ようとした名無しにローが口を開いた。
問い詰めるわけではなく、寧ろ今までにないぐらい落ち着いていて穏やかな声だった。
名無しの肩が再び震えて、恐る恐るローの方をゆっくりと振り返る。ローは設計図に目を通していたため、その表情は読み取れなかった。
書斎が痛いほどの沈黙に包まれて、外で鳴く蝉の声がハッキリと煩いぐらい聞こえた。
「…ご存知だったんですか?」
低い声で鳴く蝉がより一層大きな声で鳴く。
「毎回似たようなことをするからな」
くるくると設計図を丸めたローは名無しの方を振り返り、どうでも良さそうに呟いてた。
それから丸めた設計図を名無しに差し出して、不敵に笑って見せる。
「これはお前に預ける。好きにしろ」
「え?」
「アイツに売ってもいいし、お前が大事に持っててもいい。俺は別に口は出さねぇ」
押しつけに近い形で渡された設計図はやけに重たい気がした。
忠誠心を試される鼠
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