10
確か、名無しのギャラリーに入った日はこんな天気の良い日だった。
今思えば、あの時人の顔を見るのが億劫になってどこか静かなところに逃げ出してしまいたかったのかもしれない。
あの時は考えもしなかった。
名無しを見て、話して、感じて初めて思った。
名無しのように深く他人と向き合ったことなんて、一度もなかった。
笑顔は金で金は笑顔が生み出すもの。
笑顔は人生の円滑油。
人を好きになるのも直感だとばかり思っていたが、どうやら違ったらしい。
人間、自分に足りないものを補ってくれるパートナーを探す、なんて話をどこかで聞いたことがあるが、自分にとっての足りないものは名無しそのものだった気がする。
何故あの時目を反らしてしまったのか、とかあのまま勢いでもう一回告白しとくんだったとか。
「ま、今更だけどな」
もぬけの殻になったギャラリーを見て、サッチは一人呟いた。
四季折々の知らない風景を見せてくれた写真はもう何も残って居らず、少し汚れたガラスのドアは名残すら見せてはくれないようだ。
名無しは確かにここに居た筈なのに、随分とおかしなものだ。
あの時、真っ直ぐに見てくる名無しが怖くて仕事を言い訳に、手を解いて逃げ出した。
後ろなんて振り向けなくて、名無しの眼だけが脳裏に刷り込まれて、思い出す度に罪悪感と高揚感に苛まれて、毎日足を運んでいたギャラリーにも行かなくなった。
別に遊びで名無しにちょっかいを出した訳じゃない。
三週間悩んで、悩んで、自分でも笑えないぐらい悩んで、やっと名無しと向き合って話せると思って足を運んだらこのザマだ。
「ホント笑えねぇよ」
スーツのポケットに手を突っ込んで、自嘲するように息を吐いた。
ドアに背中を預けてずるずるとその場に腰を下ろして空を見上げると、ご機嫌に微笑む太陽に向かって舌打ちしてやる。
「名無しに会いてぇなぁ」
不機嫌そうな顔でも
無表情な顔でも
困ったような顔でも
この際、嫌そうな顔でも
なんでもいい、ただ名無しの顔が見たい。
息を吐き出しながら地面を見ると、影が落ちてきて、近づく足を何となく眺めていた。
「サッチ」
「名無し」
名前を呼ばれて、その声に無意識で名無しの名前が零れた。
「お店、移動した」
「…え?マジで?」
逆光で良く見えないが、名無しはふわりと笑っていた気がする。
「向こう、サッチが見えたから迎えに来た」
そう言いながらギャラリーを指差した名無しの指の先にはこちらとは真逆の綺麗なギャラリーが佇んでいた。
「…趣味変わったのかよ」
「こっちは仮店舗だっただけ」
「そうかよ…」
淡々と言ってくれる。
本当に落ち込んでいた自分をどうしてくれようか。
恥ずかしくて穴があったら入るどころか、埋まりたい。
「サッチ、また来てくれて、ありがとう」
座り込んだサッチの目の前にしゃがんでそう言った名無しはサッチの手をあの日と同じように握った。
それが四季を一周巡った日のこと。
不器用な12ヶ月「名無し、俺のこと信用してくれるならさ…とりあえず携帯番号教えてくんねぇかな」
「持ってないよ」