09
結局ご飯を食べに行くことはなく、桜も見に行かなかった。
今ごろはもう緑樹となっているんだろうな、とサッチは空を見上げる。
自分でダメにしといてなんだが、何故あの時あんなことをいきなり口走ってしまったのか未だに不明だ。
手のひらがやたら熱くて、絡み合う指先が愛しくて、気がついたらつい口からポロッと溢してしまった。
「おー…夏が始まりそうな感じだな」
ギャラリーに勝手に入って勝手に写真を見て呟くと、奥から名無しが顔をだした。
名無しの表情は、また来た、と言ったところか。
「おつかれさん」
「おつかれ」
事務的な会話に名無しが初めて返事を返してくれた。
今まではおはようとかお疲れさまとか声を掛けっぱなしで名無しから返ってきたことなんてなかった。
かなり今更だが、やっぱりちょっと嬉しかったり。
「サッチ、なんか良いことあった?」
「……え?」
「なんか嬉しそうにしてる」
違う。
え?の疑問は何でわかった?ではなく、今何て言った?の疑問だ。
「俺に聞いてんのか?」
「うん」
今日は一体どうしたんだろうか。
まさかの夢オチなんてことはないだろうな?と苦しくなった襟元を少し緩める。
名無しが、あの無表情で無口な名無しがサッチに向かって話しかけてくるなんて。
今までじゃ絶対にあり得なかったことだ。
しかも疑問詞。
あり得ないを通り越して現実逃避しそうになって、思わず握った拳に親指で爪をたてた。
普通に痛かった。
「…良いことか、それなら今あった」
名無しの顔は相変わらず無表情だけど、人間嫌いの名無しが自分の表情の変化に気がついて、それを教えてくれた。
もうそれだけで、じわじわと胸が熱くなって思わず名無しに手を伸ばした。
名無しは顔に迫るその手をジッと見つめて、冷たい手を重ねて指を絡める。
「……」
顔に触ろうとしたのを拒否されたのか、それとも前手を繋いだ事が関係しているのか、よくわからないが叩き落とされなくて良かった。
少し荒れた指先に力が隠り、桃色の爪が少しだけ白く色を変えた。
「お前が俺の表情を読んでくれたのが、嬉しいんだけど」
「うん」
手を見ていた名無しの目がサッチの方へとゆっくりとのぼる。
「サッチのこと信じたい」
あまり唇を動かさずにそう呟いた名無しは真っ直ぐと曇りのない眼をしていて、吸い込まれるかと思った。
営業をして色んな人間を見てきたが、こんなにも真っ直ぐ真正面から見られたのはいつぶりだろうか。
「俺なんか信用していいのか?多分俺、名無しが思うような人間じゃねぇよ?」
何となく保険を掛けたりなんかして、名無しから目を反らした。
「いい。それでもサッチのこと信じたい」
きっぱりと言い放つ名無しの手は小さく震えていて、目を反らした自分が恥ずかしくてたまらなかった。
それが初夏。