君を慰める資格すら俺にはないのだと思い知った。
夕べ、名無しの蟲が俺の精力を吸いに来たもんで、また名無しが弱ってるのかと思って慌てて見に行ったらアイツはすやすやと安らかに眠っていてほっとした。ただ蟲をどうすりゃいいのかわかんなくて、悪いと思ったがとりあえず名無しを起こしたら、アイツはひどく混乱して、促されるままに部屋を出た。
釈然としないままシャワーを浴びベッドに倒れこんだが穏やかな眠りが訪れるはずもなく、もんもんといろいろ考えこんでいるうちに夜が明けた。
翌朝珍しく厨房の前に名無しが立っていて何事かと思えば、突然謝罪をされた。蟲が勝手な行動を起こしたのは自分の監督不行届だからと深く頭を下げて。別に気にしてねェからとそう伝えれば、名無しはとても困った顔をしていた。名無しが無事ならそれでいいというのが本心なンだが、きっと名無しにはちゃんと伝わってないンだとわかった。
その場は俺も朝飯の支度があって頭を撫でるにとどめたが、もう一度きちんと話してやらないとと思ってタイミングを探していたンだが、図ったように悉くチャンスを潰され、ようやくひと段落着いて名無しのもとに向かえたのはもう夕方に近い時間だった。
「…船、降りるのか?」
甲板に出て名無しの気配がする方へ向かえば、名無しの姿が見える前にエースの声が聞こえた。
会話の内容が内容だけに眉間に皺が寄るのがわかったが、焦りと困惑を表す自分を抑え気配を殺して名無しの気配を探る。
「なんで?」
「ん?顔にそう書いてある」
やはり、エースが声をかけたのは名無しで、エースは髪を掻き乱して困ったように笑った。
盗み聞きをするつもりは毛頭なかったのだが、きっと名無しは俺に打ち明けてはくれないンだろう。悔しいがそれは痛いほどわかっていたから、ぎり、と奥歯を噛み締め拳を強く握った。
「名無しの好きにしたらいいんじゃねぇの?くいの無いように生きるべきだろ」
エースの言葉に、名無しの返答は返ってこない。
別段エースの言葉に突き放すような響きはなかったが、名無しは素直に頷けないらしい。なにが名無しをそうさせているのか、名無しがなにを考えているのかわからない、それが酷くもどかしくて場違いな苛立ちが募る。
「天涯孤独って言うんだっけ?なんかそー言うのあるじゃねぇか」
「名無しっていっつもそんな顔してるよな、なんか昔の俺より酷い」
名無しの返答を待たずして紡がれたエースの言葉に内心少し驚いた。エースも名無しも割と歳は近いほうだが、その能力故にお互い近づけないし深い話をする機会もないから、エースがそこまでちゃんと名無しを見ていることに驚いた。
野生の勘だけはずば抜けてイイのはもう周知の事実だが、まさか名無しの表情の機微を見抜いてその意味をも知っているとは思わなかった。
「なにそれ、酷いんじゃない?」
「だってお前、俺等のこと何も信用してねぇじゃん。そっちの方が酷いんじゃねぇの?」
ようやく返って来た名無しの声に、すぐにエースが反応を示す。そのあまりに直球な言葉に、思わずぎょっとした。
たしかに名無しの"それ"は隊長ほどの実力がある奴は全員わかっていたことだが、そんなに直球な言葉を投げかけるとは思わなかった。
腫れ物扱いをするつもりはないが、一応心の傷を負っているやつへの配慮というものはいくらならず者の海賊とはいえ家族にはそれを欠かさないようにしているというのに。
デリカシーも遠慮もないあんまりなエースの言葉に思わずヒヤヒヤしたが、名無しは激昂することも泣きだすこともなく、ただ何も言わず海を眺めているらしい。
「俺は名無しとあんま接点ねぇけど、大事な家族だし信用してる。お前が何であろうと何しようとな」
船縁に立ったエースの髪がばさばさと潮風に踊る。
この角度からは見えないが、エースの見下ろす先に名無しがいるのだろう。その表情が見えないことが、こんなにも辛いことだとは思わなかった。俺も、俺も名無しを家族だと思ってるし、名無しが誰であっても、何があっても信用しているし、大切な妹だと心から言えるのに、俺にはそれを伝える術がない。資格がない。
「船降りたって家族だし、だから名無しの好きにしたらいい。また帰って来ればいいんだしな」
船縁にしゃがみこんで、名無しの方に手を伸ばすエース。その手には各隊ひとつずつ用意されている海楼石の手錠があって。
「じゃん、見ろよ。俺だって海楼石身につけたら名無しに触れるんだぜ?」
きっとわしゃわしゃと名無しの髪を掻き回しているのだろうエースはやわらかな笑みを浮かべていた。
今日の晩飯、なんだろうな?肉だったらいいのになー、そう告げるエースは微笑んだまま橙色に染まりゆく海を眺めている。
「‥そうだね」
応える名無しの声は頼りなく震えていた。まるで泣いているかのようにか細い、聞いたこともない弱さで。
「明日も明後日もこれからずっと先も、一緒に飯食おうぜ。ムサイ兄貴達と一緒に食うより姉貴と食った方が美味いもんな」
「‥うん」
エースの明るく柔らかな声に応える名無しの声は酷く震えているのにしあわせそうな響きを伴っていて、何も言わずにその場を去った。
きっと名無しは俺に自ら弱味を見せることはない。
単純に嫌われてンのか信用されてないのかわからないが、俺に名無しの兄を名乗る資格はないのだろう。
エースには許されて俺には触れることすらできない距離。
もどかしさと切なさと理不尽な苛立ちがまざくりあった感情は酷く俺を掻き乱す。
(気持ち悪い)
脳が揺れるような感覚。
自分の立っている足場が歪んで歩いている感覚すらなくなる。
ぐらりと体が大きく傾いで、床が迫って来るのを最後に俺の意識はブラックアウトした。
捻れの解けない輪
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