初めてです、なんて






「あんた!そこの馬鹿面したあんたよ!」

そう声を張り上げた途端、お洒落な雰囲気のバーは気まずい雰囲気に包まれた。
正気ならば逃げ出したくなるようなこの空気の中も平気なのは、酔っ払っているからだろう。ふわふわと飛べそうなぐらい酔っ払っている。

「…俺のこと?」

お洒落な色をしたカクテルをテーブルに並べて、複数の女と楽しそうに喋っていたその男は、古くさいリーゼントで髪をばっちり決めていて、見るからに遊び人風だった。
事実、こんな風に女に喧嘩を売られても男は怒るどころかとぼけたように笑っているだけだ。
声をかけた理由は、今日の19時まで彼氏だったやつと同じ色のネクタイをしていたからだ。

「あんた、女は男に媚びるもんだと思ってるんでしょ!でも女は媚びてるように見えて…ひっく!」

合間合間にしゃっくりが入って、自分でもよくわからなくなってくる。
それでも指を差したままなのは、完全に酔った勢いというやつだろう。

「たまには男が、ひっく!女に…ひっく!媚びなさいよねぇぇ!」

「お客様…」

店の従業員が止めに入ろうと後ろから声をかけて来たが、男が立ち上がりながらそれを制してすぐ目の前に立ち塞がった。
向けられる眼差しは優しいものだが、上から見下ろされるのは些か怖さがある。

差していた指先が微かに震えたが、引っ込めるのも癪で力を込めた。

「威勢のいいお姉さん、名前は?」

思っていたよりも軽い声に恐怖心は飛んでいった。
男に放置された女は馬鹿馬鹿しいと怒って席を離れていったが、男は視線を名無しから外すことをしなかった。

「人に名前を聞く前にまず名乗ったらどーなの?」

目の前にあったネクタイを思いっきり掴み、視線を合わせるように男の顔を引き寄せる。
ふわりとカクテルの匂いが鼻を擽って、思わずどきりとした。

「これは失礼。俺はサッチ。良かったらこの下劣な男にもお姉さんの名前も教えて頂けませんか」

「名無し、…よ」

わざとらしく媚びるように紡がれた言葉は、慣れない名無しにとっては刺激が強すぎた。
いくら酔っ払っていても一気に目が覚めるくらいの衝撃があり、思わず後ずさってしまった。

「も、もういい!言いたいことはたくさんあるけど私も暇じゃない、から」

逃げ出したいと訴える足は小刻みに震え、さっきまで回っていた大量のアルコールは熱で一気に蒸発してなくなった。

「まぁまぁ、ここじゃなんだから他でお話しようぜ。名無しちゃん」

慌ててネクタイを離そうとしてみたが、ネクタイを掴んだ手を握られて逃げ場を完全に無くした。
自分から喧嘩を売っといてなんだが、とんでもない男に喧嘩を売ってしまったと思った。

「あ、の…私酔っ払って…て、申し訳…っ!」

「全然いいって全然気にしてないから。俺に是非媚び売らせてよ。ベッドの上で」

にっこりと屈託のない笑顔を見せたサッチとは反対に名無しの顔からは一気に血の気が引いた。
さっきまでサッチに同情的だった店の従業員や他の客は、いつの間にか名無しに同情するような表情になっていた。


まさかこんな状況で、言える筈がない。
















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