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「あかんよ」
優しく諭すような声で彼は私を拒否する。強く言ってくれなきゃ私はまた同じことをしてしまうのに。衝動のままに彼の胸へ飛びつけば、やはりその体には触れられず、陽炎のようにゆれる白石をすり抜けてベッドへ倒れこんでしまった。シーツに顔をうずめて声を押し殺す。今、白石がどんな表情をしているか、振り向かなくてもわかってしまうほど彼と同じ気持ちで涙はつたう。愛しい人に会いたかった。どんな手段を使っても、どれほどの代償を払っても、あの日いなくなってしまった白石に会いたくて、だから白石は会いに来たのだと言った。とても悲しい笑顔で。
「ごめんな」
「…謝らないで…」
「おん」
そう、会いに来たのだと彼は言った。しかして大きな代償があった。彼に触れられないのだ。生前の彼の肉体はもう灰になって、真っ青な空に煙を吐いた。触れることはできない。赤いボタンが押されるのも私は見た。彼の体が燃やされる音も聞いた。ただ、何かが頭を優しく撫でるのを錯覚して、そこに温かみなどあるはずもないのに確かに感じたから。生ぬるい幸福感から絶望へと変わる瞬間を私たちは二度も味わったのだ。
「なまえ、俺を見て」
「白石」
「俺な、ホンマは会いたなかった」
聡い白石はきっと、こうなることをわかっていた。愚かな私はわかっていなかった。私の手に白石の指が重なるように見えた。
「私は、」
「わかっとる」
「……うん」
「…指輪してくれとるんやな」
左手の薬指に光るそれは婚約の証で、白石が私にくれた大切なもの。悲しみに暮れる私を見かねて白石の両親はそれを手放してくださいと言ったのは記憶に新しい。でも私は嫌だと首を横にふった。
「だって愛してる」
愛してる。今も、白石のことを。たぶんずっと。人の記憶は曖昧で脆い。私はこの先彼のことを鮮明には思い出せなくなるだろう。白石の全てを美化して、風化してしまう。でもそれでも 愛してた と言うことはないよ。愛してるの。ずっとずっと、愛してる。
「おおきに」
柔らかく微笑んだ彼の笑顔を忘れないように記憶に刻みつける。薄れていく彼は小さく 俺も、 と言いかけて口をつぐんだ。近づく彼の首に腕を回す。大丈夫だよ白石。わかってるよ。唇を合わせる直前に、愛してるともう一度言った。目を開けたらきっと彼はいなくなっているだろう。夜が明けたら彼の墓前に供える花を買いに行こう。腫れぼったい目を笑わないでね。
110921 chikura