【青赤】彼は誰時のワーカホリック

「ただいま」
 返事は無いと分かっていても、なんとなく暗闇に声を掛けた。夕食後、まったりとくつろいでいるところを急な出動で駆り出されたかと思えば、帰宅は深夜になってしまった。
 しんと静まり返った部屋に一抹の寂しさを感じてリビングの電気を点ける。ダイニングテーブルの上にはラップの掛かったどんぶりとメモが置かれていた。青峰が夜勤の時、赤司は必ず夜食を用意している。頼んだ訳では無いが、いつの間にかルーチンになっていた。
『お疲れさま』
 メモには流れるような美しい字で一言だけ書いてある。青峰はその字を愛おしそうになぞり、不相応なほど丁寧に二つ折りにして財布の隙間に忍ばせた。青峰の財布はカードの類も現金もさして多く入っている訳では無いが、丸く膨らんでいる。そんな財布を見る度に、赤司が不要なレシートを溜めるなと怒るから、都度適当な相槌を打って誤魔化していた。
 電子レンジで温めている間に、冷蔵庫から牛乳を出してパックへ直接口を付ける。学生の頃から赤司には行儀が悪いと注意され続けたが、特に直す気もない。ただ、こうして夜中にこっそり飲んだとしても、翌朝には何故か赤司にバレている事が不思議で仕方無かった。
「いただきます」
 両手を合わせてラップを取ると、中身は親子丼だった。夕食とは違う、わざわざこの為に作られた料理に頬が緩む。空腹に任せ、どんぶりを持って一気に掻き込んだ。少し濃いめの味付けが疲れた体には丁度良い。
「あー……うめぇ」
 やたらと響く独り言は深夜の空気も相俟って、切なさを増幅させた。


 無駄に広い家の、無駄に長い畳敷きの廊下を、音を立てずに歩くのは自分が警官だということも忘れ、まるで泥棒のような心持ちになった。広い邸宅だからと言って、華美な内装や豪奢な調度品があるという訳でもない。ただ、ひとつひとつの作りが丁寧で、かつ質の良いもので作られていた。審美眼に優れている筈もない青峰でも充分に理解出来るほど、屋敷の造形は素晴らしかった。二人で過ごすには些か広すぎるここは、赤司が片手間に稼いだ金で建てたものだ。プロ棋士として活躍する傍ら、会社経営までこなしているが、赤司に言わせれば‘当たり前で簡単’な事だった。

 赤司は幼い頃から人の上に立つ事を使命と育てられ、もちろん青峰も家を継ぐものだと思っていた。青峰は赤司を愛しているからこそ、この関係も大学までだと抑えられる筈もない感情を殺す努力をし、ひたひたと近付く別れに一人怯えた。そして二人で祝えるだろう最後の赤司の誕生日、その日に別れを告げようと決めていた。
「指輪じゃないのかい?」
 青峰が一年掛けてようやく買ったモンブランの万年筆を見た赤司は残念そうに肩を竦めた。
「お前が何を考えているかは分からないけど、僕はお前と別れる気なんてないよ」
 全てを見透かした顔で分からないなどと嘯く赤司に、青峰は笑うしかなかった。
 そして本当に、赤司はあっさりと家を捨てたのだ。否、捨てようとした。誕生日から十日後、年の切り替わりに赤司は青峰と共に宗家へ出向き、父へ勘当を申し出た。気位の高い赤司が畳へ額を付ける姿は、今も鮮明に青峰の脳裏に浮かぶ。
 青峰は拳の一発でも喰らう覚悟をしていたが、意外にもあっさりと認められた。勘当もされず、特段条件が有るわけでもないまま、すんなり済んだ事を訝しめば、赤司は「僕を除いて、誰が当主になれる?」と、当たり前のように笑った。それから数日で、まるで父が認めた証拠だと言わんばかりに、同じ敷地内へこの家を建てた。

 そっと襖を開けて奥の布団を見やる。赤司は特注の大きな布団に一人、不自然なまで綺麗に眠っていた。その奥、庭側の雪見障子の傍らには将棋盤が置かれている。詰将棋をしていたのだろうが、青峰から見れば適当に駒が並べてあるようにしか思えない。その傍の、これまた職人技が光る真鍮製のスタンドライトへ手を伸ばし、触れたシェードがまだ暖かい事に溜息を吐いた。
 青峰はジャケットとスラックスを脱ぎ捨てて布団へ入る。静かな寝息を立てる赤司へそっと近付き、洗ったばかりの冷えた右手を寝間着の合わせから胸へ差し入れた。
「ひゃぁぁっ!」
 冷たい手で脇腹を撫でられた赤司が、ビクッと背筋を反らせて甲高い声を上げる。
「コラ。寝てろっつったろうが」
 逃げようとする腰に左腕を回し、一回り小さい体を抱き込んだ。
「おかえり、大輝」
「ん。ただいま」
 顔を上げて目を閉じた赤司の唇へキスを落としながらも、青峰は不満そうに眉を顰めた。
「そんな怖い顔をするな。きちんと寝ていたよ」
「お、良い度胸だな。警察官に嘘吐くのか?」
「根拠は?」
 食い下がる赤司の胸元にある手を、そろそろと下半身へ滑らせる。わざとゆっくりめに、しなやかなラインをなぞって太股に触れた。
「ライトはまだ暖けーし、お前の足は冷てーんだよ」
「流石、将来有望な警察官殿だね。先は警視総監かい?」
「嘘つきは泥棒の始まりってな。有罪だ。逮捕すんぞ」
 そう言って青峰は赤司の上半身を両腕でガッチリとホールドし、冷えた体を温めるように隙間なく抱き締める。
「あはははっ!これなら逮捕されても良いかな」
 無邪気に笑う赤司に、青峰はうっかり頬を染めた。もう付き合ってからは十年、大学時代から始めた同棲生活は四年になる。それでもまだ、この程度で絆されてしまう事に悔しさを覚えた。
「誤魔化されねーぞ」
「駄目かい?」
「…………あーーーっ!クソッ!」
 そう。誤魔化さなくても、元々勝てやしない。あざとい笑顔で首を傾げられれば大抵を許してしまうのだ。
「風呂入ったのに夜更かししたら風邪引くじゃねーか」
「きちんと丹前を羽織っていたよ」
 言い訳する赤司の視線の先には、ウール製の丹前が綺麗に畳まれている。
「でも足、冷えてんだろーが」
 青峰は赤司の足を自分の足に挟み、先端まで冷え切った爪先に口を尖らせた。両足を擦り合わせて温めようとすると、赤司が擽ったさに身を捩る。
「お前って意外と不摂生だよな」
「バスケを辞めてからだ。激しい運動をしないし、そこまで睡眠を必要としないからね」
 古くて輝かしい記憶に思いを馳せて、どちらからともなく手を絡め合う。赤司は青峰の無骨な指が、青峰は赤司の繊細な指が好きだった。
「そういうもんか?」
「そういうもんさ。お前こそ、意外に口煩い奴だな」
「お前が心配させるよーな事すっからだろ」
「僕は愛されているね」
「愛してるぜ?だから心配掛けんじゃねーよ」
 赤司の綺麗に整えられた襟足に、青峰が恭しく口付ける。当の赤司は顔が見えないのを良い事に、恍惚と目を細めた。
「ねぇ、大輝……」
 赤司が絡めた指に力を込め、背後へと体を預ける。
「お前が危ない目に遭っているかもしれないのに、どうして僕が寝ていられる?」
「!」
 甘い睦言を囁くようにうっとりと、それでいて透き通る声。青峰から背中越しの顔は見えないが、きっとあの、たまに見せる慈愛に満ちた表情をしているのだろう。そう思うと言いようのない幸福感に包まれた。
「俺って愛されてんだな」
「そうだよ。お前が思っている以上に、大切にしている。一層のこと閉じ込めてしまいたいくらいだ」
 青峰は赤司の体を反転させ、向かい合って抱き締めた。大事だと言わんばかりの熱い抱擁に、赤司の頬はほんのり赤く染まる。顔を埋めた少し汗臭いTシャツに酷く安心した。
「お夜食は?」
「食った。美味かった。サンキュ」
 青峰は柔らかい緋色の髪を梳いて、短い前髪から覗く額にキスをする。
「お粗末様。風呂は?」
「今から。……なぁ、一緒に入んねぇ?お前もあったまりなおそうぜ」
 少し躊躇って、様子を窺いながら尋ねる。家に見合う大きさの風呂は、大人二人で入っても十分に余裕がある程だ。その分、この時間に一人で入るには侘しさを感じてしまう。もちろん青峰の中にある気持ちはそれだけでは無いけれど。
「良いけど、明日は何時に出るんだ?」
 赤司は心配そうに眠気を湛えた青峰の頬を撫でた。
「今日長引いちまったから、半休貰えた。午後から」
 触れた手に猫のように擦り寄って甘える。それは赤司にしても心地良いもので、自然と口元が緩んだ。
「そう。じゃあゆっくり出来るねぇ……」
 赤司は青峰の両頬を包み、顔を寄せて口付けた。唇から、額、瞼まで多大な慈しみが降り注ぎ、青峰はその眩しさに眩暈がした。
 生き急いでいたという表現そのままだったあの頃。こんなにもゆっくりとした時間が有ることを知らなかった。恐らく同じであるだろう目の前の愛しい人へ、同じだけ、或はそれ以上の愛情を与えようと唇を寄せた。


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