06
闇の中で、意識は沈んだままだ。
時折、光を感じて闇の中から抜け出そうとするが、あと一歩の所で眠気が俺を捕らえて離さない。
たまらなく眠い。
起きねばならないという意識はあるのに。
時が経つのを微量ながら感じ、俺は眠気の中でもがき続けた。
何もかもが曖昧で、底無し沼の中でもがいている気分だ。苛々する。
また光を感じて、もがいてみる。
今度こそ、今度こそ。
掴める筈のない光に、幾度も手を伸ばした。
しかし、今、もがく手が空を掻いた。
どうやら沼から抜け出たようだ。
時間、時間さえ経過すれば眠りから解放される。
漠然と俺はそう考えていた。
時が経つ。少しずつ、力が、意識が甦っていく。
−−帰らなきゃ。
あの子が待っている、あの場所に。
" "がいる、あの場所に。
――帰るんだ!
そうして、俺は目覚めた。
× × × ×
気が付くと、天井を見上げていた。
白一色に染まった空間。
どこか見覚えのあるつくりだ。
病院か……病院に、収容されたんだ。
上半身を起こし、俺は改めて周囲を見渡した。
ひどく殺風景な部屋で、俺自身が横たわるベッドの他は小ぶりの棚が一つあるだけ。
窓は扉に付いている覗き窓しかない。
今は閉ざされ、外界を締め出しているように見える。
ベッドからひとまず降り、倒れそうになった。
脚や腕から筋肉がごっそり落ちていた。
どれくらい、自分は眠っていたのだろうか。
時間の感覚がつかめなかった。
身体の衰弱ぶりから見ても、一日や二日ではないだろう。
何のためらいも無く、俺は病室を出た。
廊下には誰もおらず、医師も患者すらいない、無人の廊下を俺は歩き出した。
病院なのに、ナース・ステーションらしき物が見当たらない。
どうやら、俺がいたのはビルの医務室みたいなものだったようだ。
この階をあちこち散策したが、休憩室や仮眠室といったものしか設備されていない。
延々と廊下を歩いていくとエレベーターを見つけ、それに乗る。
どこに行けば良いのか、一瞬分からなくなったが、49という数字が不意に頭の中を過る。
迷わずに俺は、49階のボタンを押した。
そこに何があるのかはわからない。
だが、自分が目覚めた事を知らせなければ。
誰にだ?
そう思いながら俺は、大事な何かを忘れていることに気づいた。
何だ。何かを忘れている。
でも、それが何なのか思い出せない。
チーンと音がして、目的地に着いた合図で俺は現実に引き戻された。
目の前に広がった世界へ、俺は飛び込んだ。
「のわぁ!!」
「っ!」
勢いよく飛び込んだのは良いが正面からきた衝撃で、俺は再びエレベーターの中へと戻された。
額に硬い物が当たったらしく、じわじわと広がる痛みに堪えていた。
「大丈夫か?」
上から降ってきた声に反応し、そちらの方を見上げる。
大丈夫、と言おうとしたが、声にならない。
目の前に立っていた人間が、あまりにも美しい顔立ちをしていたものだから、思わず見とれてしまった。
女?男?
俺の思考は、その人の性別を判別する為だけに働いていた。
× × × ×
「おい、大丈夫なのかと聞いているんだが?」
べっぴんさんの声はそこまで大きくないのに、よく通った。
あれ、よく聞いたら男の声じゃね?
「おい」
「ご、ごめんなさい! 大丈夫ですので、お構いなく」
睨みをきかせつつ、綺麗な顔が接近してくるから慌てちまったよ。
服をの汚れを落として俺は立ち上がると、べっぴんさんに詫びを入れてその隣を通り過ぎようとした。
「待て。お前はソルジャー部門の関係者ではないな?」
急に手首を掴まれ、歩行を止められる。
振り払おうとするが意外と力が強くて、振りほどけない。
面倒なのに捕まったな。
「どこから入った」
掴んでいた俺の手首を利用して、グイッと自分の方へと俺を引っ張る。
べっぴんさんの方が身長は高いし、力も強いので俺の両肩はあっさりと大きな手に掴まれた。
質問をしている筈なのに、べっぴんさんの声音は強制的に俺が発言をするよう促している。
ミントグリーンの目が、俺の顔を冷たく映していた。
何の感情も宿さないその瞳が、怖い。
先程の焦燥感等とは違い、今度は恐怖心が俺の思考を停止させた。
これが殺意を抱いた目、だとでも言うのだろうか。
微かに感じる殺気は初めて味わうもので、訓練の時のような闘気とは全くの別物だ。
まず、全身に振動が伝わる。
微力な振動は、やがて大きな振動へと変わり、そこで気づいた。
俺は震えているのだと。
体の全てが初めて遭遇した恐怖に、拒絶の意を表している事を。
ヒヤリとした風が俺の頬を撫でた。
こめかみに、首に、背中に。
生暖かい雫が俺の体を濡らしていく。
「すまない。どうやら怖がらせたようだな」
目の前の男は謝罪の言葉を口にすると、俺の頭をゆっくりと撫でた。
「えっ……」
訳が分からないと言う眼差しで、俺は男の顔を見つめる。
「泣かせるつもりはなかった」
その言葉を聞いて、俺は自分の頬を手で擦る。
生ぬるい雫で俺の頬と目尻は濡れていた。気づかなかった。
体感温度が狂ったのではないかと錯覚をするぐらいに。
プツリと、糸が切れるような感じがした。
タイミングを合わせて、大粒の涙がこれでもかと言うくらい、目から溢れ出てくる。
これ程の水分量をたった二つの目に溜めていたのかと思うと、人体の緻密な造りに偉大さを感じた。
大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせているのに、涙は一向に止まらない。
そればかりか、嗚咽が漏れる始末だ。
「うっ…うぇっ、ひっくぅ」
もう少しで十五歳になるのに、こんなことで泣くとはだらしない。
そんな自分に呆れた。
その感情が追い討ちをかけ、涙を流す量が増えただけだった。
両手で涙を止めても器の大きさに限りがあり、結局は溢れてしまう。
自分の全てが醜く、浅ましい姿に見える。
自分の姿を客観して、そう見えたからではなく、ただ、手に取るように分かるから余計に腹立たしい。
「もう泣くな。お前が侵入者ではないと今、上に確認した。だから、お前に危害を及ぼす事はない。絶対に」
しびれを切らしたのだろうか。
今まで黙っていた男が、泣きっ面を覆っていた俺の両手を顔から引き離し、自らの手で俺の顔を包む。
俺の涙で、手が汚れるんじゃないかってちょっと心配した。
「どうやら俺は、対応の仕方を間違えたようだ」
男の瞳は先程と違い、無機質な目から人を真剣に見ようとする、意思の籠った目に変わっていた。
俺は初めて、その目を純粋に綺麗だと思えた。
「まずは自己紹介からだ。お前の名は?」
わざわざ俺の目線に高さを合わせて、男はしゃがんで言った。
ここまでさせておいて、名乗らない訳にはいかない。
「フキ・フォン・ファブレ」
男はそれを聞いて小さく微笑むと、今度は自分の名前を名乗った。
「俺は、セフィロス」
かすかに笑いながら、男は言った。
多分これが初めて、俺の記憶する限り、この男―セフィロスの人間らしい一面を見た瞬間だった。