02
「エアリスって此処に住んでるの?」
花の手入れを終え、手が空いて暇になった俺は、教会の中を散策しながらエアリスに尋ねた。
「違う。 スラム街に住んでるの」
こんな所で人は暮らさないよ、とエアリスに笑われてしまう俺。
少しだけ頑張れば、住めるんではないかと期待をした俺は、エアリスの返答で自分の低レベルな思考に赤面する羽目に。
「なぁ、スラム街ってどんな所!?」
それを隠そうと、慌てて話を変える。
「えっと、プレートの下にある街」
唐突な質問に、エアリスはよく答えてくれたと思う。
プレートが何なのかは分からないが、地下か何かしらの下にある街なんだと言うことはかろうじて、理解できた。
「外、行きたいの?」
「…迷い中」
憂わしげな顔をしてエアリスが聞くものだから、素直にYESとは言えなかった。
曖昧な返事をしたから、エアリスが次に何を言うのか、気になって仕方がない。
エアリスは腕を組むと、下に俯いて何かを考え始めたようだ。
「エア、リス?」
エアリスの顔を覗こうと、俺はエアリスの傍まで近づく。
「私が案内、する!」
「な、何を?」
「スラムの街」
急に顔を上げ、にこやかにエアリスは笑うと、スラムの街を自分が案内すると言い出した。
「…良いよ。 自分で勝手にふらついてるから」
「だーめ!それとも、私が案内するの、イヤ?」
首を傾げて、悲しそうな瞳で訴えかけているエアリス。
それは反則だろ……!
そんな顔をされたら、断れるわけないじゃないか。
エアリスの問いに俺はただ、戸惑うことしかできなかった。
「決まり! じゃあ、行こう」
「ちょっ、エアリス!?」
沈黙を肯定と見なしたエアリスは狼狽えていた俺の手を引き、その場を駆け出した。
エアリスに連れられ、教会の外に出た俺は目の前に広がる風景に、一瞬、息をするのを忘れた。
これまでに見たことがない風景だったからだ。
機械仕掛けの鉄板に覆われた、上空。
荒廃状態の地上には、いくつものジャンク山が聳え立っていた。
教会の中の雰囲気と、違いがありすぎる。
教会と似たような景色がその先にもあると信じていた俺は、視界に広がっている予想外な風景に脱力した。
「エアリス、あれは何?」
鉄で覆われた空を見上げ、俺は黒い空に指を差す。
「あれは、プレート」
「プレート?」
また、聞き慣れない単語を耳にする。
首を傾げて聞き返せば、エアリスはゆっくりとした口調で俺に話してくれた。
スラム街の天はプレートに覆われ、そのプレート上には市街地であり、"プレート都市"と呼ばれる高級住宅になっている事。
スラム街やプレート都市は八つもの地区に分けられていて、各地区に一本ずつ立っている柱は、上層部のプレートを支えている重大なものだという事。
初めて聞く話や単語に、俺はわけがわからなかった。
まるで、自分一人が世界に溶け込んでないように思えた。
どうしようもない疎外感が、胸の中を埋め尽くす。
「フキ、悲しいの……?」
「えっ?」
不意に声をかけられ、俺はエアリスに顔を向けた。
「涙、出てる」
自分の目元に指を差すエアリスを見て、俺は自分の頬に触れる。
指の腹を縦になぞれば、生暖かい水の熱を感じた。
本当は、無意識に心の中で気づいてたんだ。
自分が、本来の居るべき場所にいない事を。
自分が居た世界の条理と、今いる場所の条理が噛み合わない事も。
「自分が知らない所にいるの、認める事が怖かったんだよね?」
「……!」
エアリスの優しい声と彼女の腕が、俺を包み込む。
暖かいぬくもりが、体中に伝う。
その心地よさに、目から大粒の涙があふれ出た。
「何も知らないふりするの、知っているのが嫌になっちゃたんだよね……」
「エア、リス……」
彼女の言葉の一言、一言が、俺が抱いていた不安や恐れを的確に感じ取っていた。
なぜエアリスが、俺の思っている事を知っているのかは分からない。
けれど、それが怖いと思わなかった。
否、思えなかったからだ。
あるべき居場所を奪い取られた俺に、彼女の言葉が、存在が、絶望の縁から救ってくれた。
エアリスがいてくれたお陰で、俺は自分を見失わずに済んだのだ。
俺は彼女を信じて、今ある事実を受けとめることしかできないんだ。
目の前の現実にそう思い知らせられたようで、俺はやり場の無い怒りを埋め合わせようと、何も持っていない手を硬く握りしめる。
涙で滲んだ俺の目は、空を覆いつくすプレートを捉えていた。
× × × ×
「これから、どこに向かうの?」
「スラムストリート。 最終的には、私の家」
ゆっくりと歩を進めて、俺とエアリスはスラムストリートに繋がる道に向かっている途中。
多分、今は昼間なんだろうけれど、プレートの所為でスラムは夜のように暗がりだ。
エアリスはよく、こんな危険な所を一人で歩けるよな。
変な人に襲われたりしないのか?
防犯の整備もされていない道を通って、毎日教会の花を手入れをしにくるエアリスの勇気に、俺は感心した。
「……空が何かに覆われてるって、なんか良い気がしないよな」
スラムに住んでいる人は慣れているのかもしれないけど、陽の光を浴びて育った俺には、この空が窮屈に感じた。
「そうかな? 空なんて、なくていい」
突然、立ち止まったエアリス。
その顔は下に俯いていて、よく見えなかったけど、明るいものではなかった。
まずいこと、言ったかな……。
「空、嫌い?」
「ううん。 嫌いじゃなくて、怖いの。 吸い込まれそうで……。 変、だよね」
困惑を含ませた笑みが、俺に向けられる。
「変、ではないよ?」
「えっ…?」
見開いた翡翠の目が、俺を捉える。
「だって、普通、だなんて誰かの理想だろ。 それに普通でいることの方が、変わっている事よりも難しい」
意味なく他者や己自身を普通だと決めつけたい奴は所詮、自分の価値観を正当化させたいから言うんだろう。
エアリスの目を真っ直ぐに見つめて、俺はキッパリと言った。
「……フキって強いんだね」
「強い? 俺が?」
「うん」
エアリスにはっきりと言われ、今度は俺が困惑した。
「強いんじゃなくて、俺は強がっているだけ」
精一杯考えた、苦し紛れの一言。
自分でも、笑顔がひきつっているのを感じた。
「変なの」
エアリスはそう言って、くすりと笑う。
その笑顔に俺は安堵した。
どんな事だろうと、彼女が悲しまないですむのなら、それで良い。
「変で良いよ。 みんなと同じじゃ、個人の魅力が引き立たないよ?」
「そうかな……」
「そうだよ。 だったらさ、エアリスが空を好きになれるように、今度見に行ってみよーぜ」
エアリスの少し前を歩いていた俺は、体を後ろ向きにして道を進む。
「うん、行ってみたい!」
「決まり」
俺とエアリスは、二人で空を見に行く計画を話しながら、スラムストリートを目指す。
荒廃した大地に、小さな希望の光が射し込んだ。