特別な日(茨)

「おめでとうございます」

 広いベッドの隣からそんな声が聞こえた。明日は朝からロケが入ってるから早めに寝る、って言ってたのに。日付が超えた直後に律儀にお祝いの言葉をくれたのは横で眠っているはずの茨くんだ。

 毎年、忙しいながらも私の誕生日には時間を作ってお祝いをしてくれる茨くんだったけど、今年はどうしても外せない仕事が入ってしまい別日に改めてなんて話をしていた。お互い社会人な事もあり、希望した日に休みが取れないなんてごくごく自然なことなので特に気にしていなかった。一般企業勤めの私と、アイドルで経営者の茨くん。そもそも住む世界が違うはずなのに、こうして恋人になって、同じ部屋で同じ時間を過ごしていることが奇跡なのである。

「ありがとう……。寝たのかと思ってた」
「騙されて頂けたようで何よりです」
「寝なくて大丈夫? 明日早いんでしょ?」
「あぁ、あれ嘘なので大丈夫です」
「え?」

 嘘? 茨くんが告げた言葉が何を意味しているのかがさっぱり分からず、思わず上半身を起こして隣で仰向けになっている茨くんを見た。すると茨くんも上半身を起こし、愉快そうに笑いはじめた。

「ドッキリというやつですな! ……それに、1年に1回くらい特別な日があったって良いでしょう?」
「…茨くん」
「明日……、いえ日付が変わったので今日ですね。休みなのでなまえの好きなように過ごしましょう。あぁ、夜は自分が既にスケジュール組んでるのでお任せください」

 いたずらが成功した子どものように、でも慈しむような眼差しを私に向けている茨くんは、アイドル、経営者の七種茨ではなく、私がただひとり愛している七種茨だ。

 今年は一緒に過ごせない、でも大人だから仕方ないよ、なんて自分の中で無理矢理納得していたけど心のどこかでは少し寂しかった。だからこうして茨くんが私の誕生日を「特別な日」だと言ってくれて、時間を作ってくれていることが本当に嬉しくて堪らなかった。

「茨くん、私のこと愛してくれてありがとう」
「……なんですか急に」
「私も茨くんのこと、大好きだよ。愛してる」

 茨くんの近くに寄り、そっと抱きつくと、何も言わず背中に腕を回してくれた。言葉に出す事は少ないけれど、茨くんから受ける愛や優しさは全て伝わっている。それがファンでも彼の部下でも同僚でもない、ただひとり彼女という立場である私の特権だ。

 今日という特別な日、あなたと過ごせることはこれ以上ない私の幸せだよ。そんな意味をこめて、自分の唇を茨くんの口元へ寄せた。

 ◇◆◇

「そういえば去年、茨くんに嘘つかれたんだよなぁ」
「……さすがに今年はやりませんよ」
「……休みが嘘でしたはショック」
「だからやりませんって」

 夜ご飯を共にしながら、昨年の記憶を呼び起こす。去年の今日、誕生日の日付が変わった頃。茨くんが私の誕生日には休めないと言っていたから、仕方ないよねと自分に言い聞かせていた。けれど実際は仕事は入っておらず、私のために一日空けてくれていたというサプライズをしてみせたのだ。

「嬉しいけど、休んでよかったの?」
「問題ありませんよ」
「……ほんとに?」

 多忙な茨くんのことだ。きっと無理をしてやすませて休ませてしまったのかもしれない。去年、私の誕生日を「特別な日」と言ってくれたことは嬉しかった。何事にも変え難い、大切な言葉として、いまも私の胸に残っている。けれど、それが仕事に支障をきたしているのではないかと思うと、素直に受け入れていいのかも分からずにいる。

 ふと、机の上に置いていた茨くんのスマホが鳴った。仕事の電話だったようで、「失礼」と言って廊下の方へ向かっていくその背中を見送る。相変わらず忙しそうにする彼はやはり無理をしているのではないだろうか。そう思うと、やはり申し訳なくて箸が止まる。

 ぐるぐると「どうしたものか」と考えていると、今度は私のスマホが鳴る。メッセージはよく届くが、着信を知らせることは珍しく、そしてディスプレイに表示された名前も珍しくて思わず目を見開いてしまった。

 茨くんが出ていった方向を見る。まだ戻ってくる気配もないのでスマホを持ってベランダへ出た。

「も、もしもし?」
『もしもし、なまえさん? すみません、オレです。漣です』
「こんばんは。……まさか漣くんから掛かってくると思わなくて驚きました」

 電話の相手は、茨くんと同じユニットの漣ジュンくんだった。連絡先は交換していたけれど、滅多に連絡を取ることはなく、たまに茨くんの隠し撮りが送られてくる程度。電話は今の今まで一切無かったので、尚のこと驚いていた。

『茨が明日休み取ってんの気にしてそうだなって思ったんですけど。合ってます?』
「えぇ……? どうして分かったんですか?」
『いやぁ、なまえさんの話はよく茨から聞いてるんで。聞いてるというか、おひいさんとナギ先輩が話させてるというか?』

 茨くん、そんな目に遭ってるのか。普段そういう話は自分からしないので、仕事中の茨くんの情報というのは珍しく、ありがたい供給でもある。

『気にしなくていいですよ、茨、明日記念日休暇で休んでるんで』
「えっ、記念日……?」
『そういうことです。なのでなまえさんは気にしないで茨に甘やかされてやってください』

 漣くんの言っていることが俄かに信じられず、思わず聞き返してしまう。けれど漣くんが嘘を言っているようにも思えなくて、心拍数が跳ね上がる。

 硬直する私の背後から腕が伸びてくる。そしてその腕は私の手からスマホを抜き取り、不機嫌そうな声で電話相手に話しかけた。

「ジュン、余計なことは言わなくて結構です。……はい、はい。では」

 茨くんはいつの間にか自身の通話が終わったようで、私のいるベランダまで来ていた。いつからそこに居たのかは分からないけれど、漣くんと話していた内容はバレている気がしてならない。でも、私は茨くんに真偽を確かめたくてベランダから部屋に戻ろうとする茨くんのTシャツの裾を掴んだ。

「い、茨くん」
「……なんですか」
「記念日休暇にしてくれたって、ほんと……?」

 少し背の高い茨くんの顔を見上げる。

「……なまえの特別な日、なので」

 ほんの少し、顔を赤くさせた茨くんがぶっきらぼうにそう答える。きっと知られたくなかったのかもしれないけれど、私は去年に引き続き、私の誕生日を「特別」と称してくれることが嬉しくて仕方がなかった。

「茨くん、ありがとう。嬉しい」
「そうですか」

 茨くんの背中に抱きつく。広くて頼り甲斐があって、優しい背中。今年の誕生日も大好きな人と過ごせる。記念日も、クリスマスもお正月も一緒に過ごせなくていい。仕事を優先してくれていい。けれど、誕生日だけは特別で、なによりも優先してくれる茨くんの思いが心にじんわりと染み渡る。

「部屋に戻りますよ」

 抱きついて腰に回した私の腕を引き剥がし、そのかわりに手を取ってくれる茨くんに導かれて部屋へと戻る。嬉しいな、幸せだな。きっと明日迎える新しい一年も素敵な一年になるだろう。まずは一日目、大好きな人と過ごせる幸せを噛み締めて、この歳に別れを告げた。

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