きみとすごせたら

「……甘い匂いがする」
「凪砂くん、本読み終わっちゃったの?」
「うん。それは……ケーキ?」

 リビングで本を読んでいたはずの凪砂くんが、ひょっこりとキッチンへ顔を覗かせる。「おいで」と手招きしてみせれば僅かに表情が明るくなり、美しい髪を揺らして凪砂くんはわたしの隣へ立った。

「今日は凪砂くんのお誕生日だから、ケーキを作ってるの」
「……私のため?」
「うん。凪砂くんのお祝いをするため」

 そう言うと、凪砂くんはキョトンとした表情で、わたしの顔と、それから手元にある泡立てている途中の生クリームを交互に見比べる。もう長いことアイドルをやっていて、バースデーイベントやファンの方々からお祝いされることにも慣れているだろうにどうしてそんな表情を浮かべるのだろうか。釣られてわたしまでキョトンとした表情になってしまった。

「もしかして、ケーキ苦手?」
「ううん。なまえが作ったものならとても嬉しいんだ。……そう、嬉しいんだと思う」
「嬉しい?」
「君が、私の生きる意味を見出してくれているから」

 柔らかく、心底満足そうな笑みを浮かべて凪砂くんは言う。
 わたしはと言えば、その答えに涙が出そうになるのを既の所で耐える。自分のことが嫌いだと言っていた凪砂くんが嬉しさを、喜びを知って、感受してくれている。それがわたしにとってどんなに大きな意味を持つことなのか、彼はきっと知らない。

 凪砂くんの生きる意味になっている、その事実がどうしようもなくわたしの心を満たして、『あぁ、好きだなぁ』とじんわり染み込んでくる。そしてそれは感極まって涙になってしまった。

 すっかり涙目になってしまった顔を見られたくなくて、視線を手元のケーキに向ける。

「……なまえ、泣いてる?」
「う、ううん! ちょっと髪の毛が目に入っちゃって」
「そう。……そういうことにしておこうかな」

 背中にピタリと体温がくっ付き、しっかりした腕がわたしの腰に絡みつく。背の高い凪砂くんが後ろからわたしのことを抱きしめ、わたしの顔を覗き見ている。不意打ちの行動でばっちりと目が合ってしまい、泣いていないという誤魔化しが効かなくなってしまった。

「嫌な思いをさせてしまったかな」
「……違うよ。これは嬉し涙」
「嬉しくて泣いてるの?」
「うん。凪砂くんが幸せそうだから」
「……私のせい?」
「凪砂くんのおかげ。凪砂くんのおかげでわたしも幸せなんだよ」

 生クリームの入ったボウルを置いて、身体の向きを変える。ぎゅっと抱きつけば鼻いっぱいに広がる凪砂くんの匂いとケーキの甘い香りがすこしチグハグで思わず笑ってしまいそうになった。

「わたしは幸せ。凪砂くんは、幸せ?」
「……なまえが泣き止んでくれたら、もっと幸せかな」

 困ったように眉を下げながら微笑む凪砂くんに「ごめんね」と言えば無言で髪にキスがひとつ降り注ぐ。それから少し間を空けてから顔を上げれば、今度は唇にキスがひとつ、ふたつ、みっつ。わたしの中にある幸せの数は数えきれないほど、たくさん。

 凪砂くんの新しい一年が幸せで溢れてくれることを祈って、微笑む凪砂くんへ拙い笑みを返した。
 

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