幸せな時間を


 鍵をドアに差し込み、玄関を開ける。なまえの小さな靴の隣に自分の靴を脱いで並べるとその差は歴然で、思わず頬が緩む。たぶん、こういうほんの小さな幸せがなまえと過ごしているうちに積み重なって、オレのなかにあるなまえへの『好き』という気持ちがどうしようもなく溢れるのかもしれない。これから何年先、いや、何十年先もこの幸せが積み重なっていくのかと思うと、胸がいっぱいになる。
 部屋に入り、なまえに声をかけようとするが姿が見当たらない。彼女の姿はないが、奥の方から甘い匂いがして、匂いにつられて歩いていくとエプロン姿の彼女がそこに居た。
「なまえ、こんなところに居たんすか」
「あ、ジュンくん! ごめんね、お出迎えできなくて」
 クリームのついたゴムベラを片手に、満面の笑みでオレの名前を呼ぶなまえ。いいな、そのエプロン姿。新婚みたいだ。そうか、なまえと結婚すれば毎日……は、職業柄難しいかもしれないけれどこうして迎えてもらえるのが当たり前の光景になるのかとひとり妄想に耽る。
「ジュンくん……? 疲れてる?」
「あ、あぁ、すみません。ちょっと考えごとしてました」
 まさかあんたとの新婚生活を妄想してました、とは言えずなんとかはぐらかす。「ならいいんだけど」とすこし心配そうな表情で様子を伺う彼女に「大丈夫っすよ」と宥めるように頭を撫でると目尻を下げて微笑んだ。その微笑みに連日の疲れが一気に吹き飛ぶような気がして、抱きしめたくなる衝動をなんとか抑える。
「なに作ってたんすか?」
「ジュンくんのお誕生日ケーキ!」
「え、手作りしてくれたんですか?」
「ふふっ、愛がこもってるよ」
 オレが釣られた甘い匂いの正体は焼きたてのケーキだったらしく、生クリームをスポンジに塗っている最中だったようだ。まさか手作りを食わせて貰えるなんて思ってもいなかったので、心の中でガッツポーズをする。なまえの作る料理やお菓子はどれも絶品で、誕生日に託けて仕事を沢山入れて彼女に会える時間を削った原因である茨のことも許してやるくらいには嬉しかった。
「喜んでもらえてよかった」
「うまそう。本当に嬉しいっす」
 嬉しいっすよ、なまえがオレのためにしてくれてること全部。たぶん、オレは表情に出やすいらしいから言わなくても伝わってるんだろうけど。
「んぐっ」
「褒めてくれたお礼につまみ食いさせちゃう」
 すこし照れた表情でなまえがオレの口に突っ込んだのは真っ赤な苺。突然のことで驚いたが、咀嚼をすればするほど甘みが口の中に広がっていった。もしかしてこれは照れ隠しなのだろうか、彼女を見るとくすぐったそうに笑っていた。
 その姿があまりにも可愛くて、気付けばオレはなまえの唇に自分の唇を重ねていた。何秒かその柔らかい唇の心地よさを堪能して、名残惜しさを感じながら離れる。あぁ、ダメだ。もっと欲しくなってしまう。
「……いちごの味がする」
「もう一回します?」
「目が怖いよ、ジュンくん」
「そりゃあ、まあ。久々に会えたんで」
「うっ……。け、ケーキ! 作り終わるまでまってて!」
 まな板に置いてある苺のように耳を真っ赤にした彼女が、そう言いながらオレから距離を取った。そういうところが可愛いんだよな。
 すこし離れたところで、楽しそうにケーキへ彩りを施していくなまえを見守る。オレのことを考えながら作ってくれているのだろうと思うと、やはりなまえへの『好き』という気持ちが溢れて、留まってくれそうにない。来年も、その先の未来もこうして祝ってくれるのだろうか。未来を共に歩んでくれるのだろうか。そうであってくれれば、オレは。
「ジュンくん」
「――はい、どうしました?」
「お誕生日おめでとう。大好き」
 どうしようもなく幸せなのだから。

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