いろは唄 | ナノ
学級委員長委員会委員長

>> よ


天女サマと相対する利吉さんを見た瞬間に、珍しくもあれは苛立っているとわかった。

そりゃそうだ。惚れでもしてなきゃあの馴れ馴れしさは鬱陶しいだけだろうから。

初対面の相手に身の上話なんてするようなもんじゃない。お涙頂戴としか思えないだろう。

まして本職の忍者である利吉さんからすりゃ、もはやおぞましいばかりだったかもしれない。

だってそういう術は実際にあるもの。つまるところは哀車の術。


天女サマについては、あくまでも忍術学園内部の問題。

いくら学園関係者に血縁がいるとはいえ、利吉さんには一切関係ないことだ。

だから、この件に関してあまり深々と踏み込ませようとは思わなかった。

ぶっちゃけ、天女サマが利吉さんに接触することからして、歓迎できる事態じゃなかった。

それでも変な女がいたなとでも思ってもらって、そのまま帰ってもらえばそれでいいと思っていた。

帰ってもらいたいなら、余計な心配をかけるなんてことはあっちゃいけない。


だから、俺はへらりと笑って、何も気にしていないふりをしたんだ。

そりゃまぁ、ちょっと不機嫌さが滲み出ちゃってたかもしれないけどな。そこはご愛嬌。


利吉さんを騙せるとまでは思っちゃいない。けどま、うまく誤魔化せてはいると思ったんだよな。

地に還してやりたいなんて、ぶっちゃけたのは本音も本音。

どこで誰の耳に入るかもわからないから、ずっと黙ってはいたけれど。

殺していいならば今すぐにでも殺してやりたいと、俺は随分前から考えてはいた。


天女サマに罪はない。強いて言うなら、罪がないことこそ彼女の罪なのかもしれない。

その罪のなさを羨ましいと思えたのは初めのうち。天女サマが学園を堕落させていることに気付いてしまった。

気付いてしまえば、彼女のその罪のなさが憎たらしく、恨めしいものに思えた。


許可が下りないというのは、些細でありながら絶対的要因で。

それをおどけて言ってしまえば、余裕があることを示せると知っていた。


利吉さんはふと笑う。あぁ、なんてわざとらしい。本当に意地の悪い人。


「隠し事をしたいなら、いっそ食堂にでも招くべきだったんじゃないかな?」

「そ、れは……だって、天女サマは食堂で働いているからですよ」


先生が呼んでいると言ったのに、食堂になんて連れて行けるものじゃない。

誤魔化した。帰ってください、利吉さん。俺は大丈夫なんですから。言えなかった。

わかっていた。無意識に縋っていたことに、気付いていた。

私室に招くなんて、あまりにあからさま。普段なら、こんなことは絶対にしない。

つまり、俺はそれだけ追い詰められているということで。


やめてやめて。俺は泣き言なんて言いたくないんです。愚痴なんて絶対にごめんです。

優しくしないでくださいよ。わかってるくせに、俺が誤魔化されて欲しいって。

俺が何を考えているかなんて、全部とっくにわかってるくせに。

わざと誤魔化されるふりもしてくれないなんて、本当に優しい人。


「都竹」


たった一言、それも名前を呼ばれただけ。やはり駄目だったのだと気付いた。

思っていた以上に追い詰められていたのだと、他人事のように思った。

聞き分けのない幼子のように頭を振って、今の俺はさぞ愚かしく見えたことだろう。

項垂れたままちらと優しそうな笑顔を見やって、弱音を吐いた。

駄目だ。この人は優しくないくせに優しくする、残酷な人、なのに。

紡ぎ始めた言葉は、もう止まらない。それはあたかも流れる川のごとく。


「駄目なんです、もういやだ、何のために学園にいるのか、俺にはもうわかりません」


こんなこと、誰にも言えるはずもなかった。


孤児である俺にとって、忍術学園は唯一無二と言っても過言でない居場所だ。

その他に行ける場所など俺にはない。学園を失ってしまえば、俺には何も残らない。

学園に居場所を見つけてから、俺は一生涯かけて、己の居場所を守るためだけに戦うと決めた。

それなのに。それなのに、それなのにそれなのにそれなのにそれなのに……!!


腕を切り裂かれた俺と、掠り傷を負った天女サマ。

期待なんてしていないと思ってた。好きにすればいいと、勝手に落ちぶれていけと。

それでも、あいつらが天女サマに駆け寄ったとき、俺は確かに愕然とした。どうして俺じゃないのかと。

俺のほうが重症なのに、俺のほうが長く付き合ってきたのに、俺のほうが、俺が。

手の届かないものに焦がれた。手の届かないものに焦がした。


奪われた。失った。消えてしまった、俺の、俺だけの。


三禁を忘れ色に溺れた彼らを侮蔑して嘲弄して、それで俺は自分を保ったつもりだった。

お前たちのように愚かでないと、俺はあんな雌狐に騙されていないと。

だから、学年で1人孤立していることは、大した苦ではないと思っていた。

この程度。あいつらごとき。俺は、気付いていなかった。気付かないようにしていた。

後輩がいる。後輩のために。落ちぶれた同輩など、もはやどうだっていいのだと。


なのに、それなのに、我を忘れているのは、他でもないこの俺だ。


わかっている、わかっていた。色とは、男女間の交情についてだけじゃない。

異性同性を問わず、情に関わるものはすべからく色に含まれる。

俺があいつらに対して抱いている友愛でさえ、一歩違えば色になる。


知らないフリしてた。気付かないフリしてた。知りたくなかった。気付きたくなかった。

すべて思い知らされてしまった、未練に思っているのは俺のほうだと!!


わかってしまった、後輩の存在だけでは俺は俺でいられないと。

委員会活動を蔑ろにしようとは思わない。天女サマに心を赦そうとは思えない。

俺の居場所を守る、忍術学園を守る。それは変わらない。

居場所を守るために俺を殺してしまえば本末転倒だというのに。


「いや、いや、いやだ、どうしよ、どうしたら、あ、ああぁぁあ」

「都竹! 落ち着いて、落ち着くんだ都竹、いい子だから」

「にい、さ……俺、やだ、も、やだぁ!」


ぐすりと洟を啜ると、じんわりと浮かんだ涙が毀れた。

切れた堤から、水が溢れ出すようだった。流れ出した涙が止まらなくなる。


「兄様、利吉兄様、俺を殺してください」

「都竹、ふざけたことを言うんじゃないぞ」

「ふざけてない、本気だ」

「都竹が死んで、何になるって言うんだ?」

「もういや、全部いやだ、だからもう、」


二度目のころしては、言えなかった。兄様の手がぱちりと左の頬を叩いたから。

これっぽっちも痛くなかったけど、兄様のほうが痛そうな顔をしていらした。


「ごめんなさい、ごめんなさい、兄様泣かないで、ごめんなさい、俺が悪いんです、俺が全部悪いんです」


兄様が一滴だけ涙を流した。

あぁ、なんてきれい。でもね、兄様を泣かせたいんじゃない。

殺してなんて言わないから泣かないで。


「泣かないで兄様、泣かないで、嫌わないで、ごめんなさい、いい子にします、我侭も言いません、だから嫌わないで」


きらわないで、おねがいあいして。にいさま、おれをあいして。


「死んではいけないよ、都竹。殺してくれなんて、そんな悲しいことはもう言わないでくれ。
 都竹がいないと私は寂しい、父上も母上も寂しがる」

「いいの、兄様いいの、俺が生きてていいの? 俺が悪いのに、俺が生きてていいの?」

「都竹は何も悪くないよ。都竹はいつだって一生懸命に生きてきた、私の自慢の弟だ。だから都竹、生きていてくれ」


あいして、くれますか。


答えは暖かい抱擁だった。


(ごめんなさい、狡くって)


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