いろは唄 | ナノ
学級委員長委員会委員長

>> り


滝夜叉丸を長屋まで送ってから部屋に戻ると、喜八郎がやってきた。

さて、今度は一体なんだろう。


「滝だけ、ずるいです」


そんなことを言ったと思えば、よくわからないが抱きつかれてしまった。

言葉足らずというか何というか、この気侭な後輩の言葉は唐突で理解に苦しむことがある。

あんまり額で背中をぐりぐりしないでほしい。あの、肩甲骨痛いデス。


「都竹先輩、」

「お? なんだ、どうした喜八郎」

「立花先輩が」


仙蔵ならさっき天女サマと歩いてたぞ。冷静も何もない緩んだ面してたぞ。

あの小奇麗な面を殴りたいなら殴って来い。俺が許可してやる。


「前はターコちゃんたちのこと、お前の蛸壺は綺麗だなって、最近褒めてくれません」


ターコちゃん、たち? あれ、複数形なの?

っていうか、おいこら仙蔵。お前の後輩、泣きそうな面してるぞ、いいのか?

学園中の美形どころを集めておきながら放置とは、なんて贅沢な。いや、えーっと羨ましい?

いやいや、そういう問題ではなくて。脱線しすぎだ。何の話だっけ?


「もう掘るな、って言われました」


喜八郎は尊敬する仙蔵に褒めてほしかっただけだろうに。

当の本人がそんな後輩を忘れて色欲に溺れてるんじゃあな。

あぁ、我が同輩ながらなんて嘆かわしい。


「もっと掘れって言ってくれてたのに、あの女が落ちるからって」

「なるほどねー、今は駄目って言われると」


なーるほど、通りで最近ターコちゃんだのトシちゃんだのの被害が少ないと思った。

そーいや、委員会の後輩が寂しがってたっけ。蛸壺大好きっ子だもんなぁ、あの子。


「向こうが勝手に落ちるのに……ちっとも面白くないです」

「それを拗ねてんの?」

「そう。だから先輩は慰めないと駄目」


小さくそう言われた言葉は、いつものように淡々としているようでどことなく元気がないように感じた。


「競合区域で穴を掘ろうが、それは個々の自由だろう?」

「僕もそう言いました。でも、先輩は駄目って言うんです」


確かに今までだって、仙蔵が蛸壺について言うことは、まぁたまにあった。

だけど、危ないからと注意することはなかったように記憶している。

そういうことに関して、仙蔵は割と厳しいところがあったから。うん、過去形だ。

普通の庭とは違って、競合区域に罠があるのは普通のことだ。

甘いことは言ってられない。だってこれが将来の役に立つことだから。俺たちはそういう未来へ進むんだから。

いや、もちろんそうでない行儀見習いはくのたまのみならず、忍たまにだっているのだけどね。

それだって、別に身に着けておいて損な技術ではないと思うんだ。

将来肥溜めに落ちて溺れるくらいなら、今穴に落ちて擦傷切傷をこしらえるほうがましだろう。


蛸壺の上を偶然踏み抜いても、それは油断して落ちたやつが悪い。いや、保健委員は別格だ、あれはな。

綾部産本気印の蛸壺に落ちるならまだしも、石に躓くのは忍たまとしてどうかと思うけど。

とにかく、そういうことは自己責任であるという了解のもと、生徒は忍術学園に在籍している。

自力で脱出できないような深い穴は別として、あまり掘りすぎるなよ程度にしか言わなかったものを。

それが禁じられるんじゃあ、忍術学園の空気も随分と変わったもんだ。


なぁ、仙蔵。俺が思うに、蛸壺はすなわち1人用の塹壕だろう?

確かに喜八郎の蛸壺は落とし穴とさしたる違いはないけれど、それでも塹壕だろう?

塹壕は己を護る盾であり、敵を脅かす矛でもあるはずだ。

それがなくなってしまえば、万が一下級生が侵入者に出くわしたとき、どうなる?

それはおかしいんじゃないのか、仙蔵。それは間違ってるよ。


「それに、僕が髪に泥をつけていても、タカ丸さん何も言わないんです」

「そいつはまた、珍しいこともあるもんだな」


髪への執着は失っていないと思っていたけど。

そういえばなんだか違和感があったな。

あぁ、そうだ。斉藤タカ丸が天女サマを囲んでいたときだ。

妙だなとは思っていたけれど。そうだ、あそこには八左ヱ門がいたんだ。

クソと称し毟ろうとさえするほど髪質の死んでいる、竹谷八左ヱ門が。


「みんなおかしい。都竹先輩、怖いです」

「大丈夫だ、喜八郎はなーんにも怖がんなくっていいよ。

 仙蔵には俺から伝えておくし、天女サマにも競合区域を歩かないように言っておくから」


どたばたと、しかし円滑に回っていた学園を鎖した妙な影に怯える後輩に、俺はそれしか言えなかった。

きっと大丈夫、明日には、明日には、その期待は、もうずっと裏切られ続けていた。

何かしなければと思っても、何をすればいいのかは、俺にもわからなかったのだ。


(色の三禁たる理由か)


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