小説ページ | ナノ
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -

数週間に一度くらいの頻度で、こういう雰囲気になることがある。ほんの暫くの間に流れるこそばゆい沈黙にも未だに慣れず、齷齪している私。しあわせと戸惑いと緊張が入り乱れた隊首室で、隊長と私は二人きり。横からふわりとかけられる声は、優しく私の名前を呼んだ。これは、隊長が私に何かを求めている合図。隊長は、ずるい。想いを打ち明けられてからも、ずっと私の名前ではなく名字を呼んできた隊長が、急に呼び方を変えるのは、私に甘える兆候を示している訳だ。もちろん確信犯に決まっている。少し掠れた声で、はいと返事をすれば、またあの優しい声でこちらを向け、と言われる。公私混同を嫌う隊長だからこそ、名前で呼ばれたり、優しい声で話し掛けられたりされると、私は全ての抗う術を封じられてしまうのだ。怖ず怖ずとそちらに目だけを向ければ、ふわりと微笑みを浮かべた隊長と目があった。くらり、甘美な目眩に溺れてしまいそう。それは隊長としての目ではなく、一人の男としての、私を一人の女として見ているような目で。一度こうなってしまうと、やはり目を逸らすことができなくなってしまう。私は本当に恋愛と男の人に免疫がなくて、だけど隊長のことは大好きで。だからこそこうして隣に座っていてくれるだけで、私は十分幸せになれるのに、隊長はやはりそれだけでは足りないらしい。先日やっと、はじめて隊長と手を繋いだ。繋いだと言っても、手と手が触れた程度だけれど。仕事の休み時間、私が隊長と甘味処の長椅子でお茶を飲んでいたところ、椅子についた私の手に、隊長の大きくて温かい手が重なった。突然のことに驚いた私は、反射的にその手を払ってしまった。その後しまった、と思ってももう手遅れで。細い目を少し大きくして驚いた隊長の顔が、頭に焼き付いて離れない。そんなことがあってから数日後の今日だ。もう、隊長を拒絶するような態度は見せまい、そう思っていたけれど、この見つめ合いの攻防戦の後は、私は必ず耐え切れずに空気を壊してしまう。だって、この雰囲気ってやっぱり、その……た、隊長とキ、キスとか、する訳だし、そんなことされたら私、これから先ずっと隊長の顔見れない気がするし……。私に恋愛なんて百年早いんだ。そう思ってまたいつものように隊長から目を背けようとしたが、今日ばかりは違った。私より一瞬早く、隣に座っている隊長が、今にも逃げ出そうとしている私の腰に手を回した。途端に熱を持ちはじめる体は、石膏で固められたように動かなかった。


数週間に一度くらいの割合で訪れるこの空間は、私にとってとても好都合なものだ。普通恋人というものは、互いを求めあい、心だけでなく体をも求め合うらしいが、私たちの場合はそのようなことは一切ない。彼女は私の側にいられるだけで満足しているのであろう、求めてくるどころか、私が触れようとするとまるで拒絶するかのような反応を見せる。さすがにこれには私も傷付いた。今日訪れたこの雰囲気は、決して自然な流れとは言えない。彼女がどうにか頑張って沈黙を作らぬようにあれこれ話を振ってきたが、全て一言二言でかわしてやった。計画的に作られたこの流れに乗って、今日こそ彼女との関係を一歩前進させてやろう、そう思っていた。しかし彼女は恋愛を、男を知らない。おどおどした表情を見せている彼女の名前を、優しく呼んでやる。私は普段は彼女を名前で呼ぶことはない。そうすることで、稀に口にする名前を、猛毒のように甘くすることができるからである。するといつものように、少し泣きそうな目をして私の方を向いた。その顔が、私に火を付けるとも知らずに。ああ、こんなにも可愛くて、愛しくて。だからこそ、いつもは嫌われるのが怖くて、大切にしたくて、なかなかその一歩を踏み出すことができずにいた。だが、今日は違う。いつもの通り、顔を背けようとする彼女の腰に、素早く腕を回した。小さくビクンと跳ねる彼女の体、あまりの初々しさに笑いそうになる。可哀相に、逃げ道を無くしてしまった彼女は、口を固く真一文字に結び、下を向いている。こうも可愛らしい反応をされると、ますますいじめてやりたくなるからくせ者だ。下から彼女の顔を覗き込んでみると、今にも泣き出しそうな顔で私を見た。もしここで、私が彼女の想像を越えるようなことをしたら、彼女はどのような反応を示すだろうか。ゆらり、私の征服欲が火を燈した。私は彼女の腰から手を退けると、彼女の肩を押した。簡単にソファーに倒れた彼女の上に、四つん這いになる形で手をついた。


「た、たい、ちょ、」

「どうかしたのか?」

「ど、どどど、うか、お退きになってくだ……」

「ならぬ。」


突然肩を押されたかと思ってソファーに倒れ込むと、真上に見えたのは隊長と高い天井。状況を把握するのに時間がかかったが、隊長は、恋愛の段階を三つぐらい飛び越して、最終段階へ飛ぼうとしているということに感づいた。途端に激しい焦躁が私を襲う。だって、無理だ。この私が、隊長と、その、あんなことやこんなことをするなんて考えられない。回らない呂律を操って、なんとか隊長を制しようと思ったが、それは叶わなかった。上の隊長が、意地悪く微笑んだ。


やはり、彼女は私が想像していた以上の反応を見せてくれる。私の下で目を回さんばかりの勢いで焦っている彼女は、まさに私の支配下である。その全てが愛しくて、自分の彼女への愛は底無しだということを改めて知らしめされた。腕で支えていた体を、まるで彼女に吸い寄せられるように解き、ふわりと覆いかぶさる。完全な密着、もしかしたら彼女は失神するのではないか、そんな大袈裟な不安もあったが、至近距離で見た彼女は可哀相なことに意識があるようだ。いっそのこと、気絶していた方が、楽だったかもしれない。息の音が聞こえてこないところを見ると、息の根を止めているようだ。あまりのことに我を忘れているように見受けられる。そして私は今、はじめて、そっと彼女の頬に唇を寄せた。びくりと震えた肩を抱き、世界で一番愛する彼女の耳元で小さく囁いた。


「今のお前は、世界で一番、可愛いぞ。」


隊長が、あの隊長が、私の上に覆いかぶさってきた時は、もうダメだと思った。私はきっと心臓破裂して死ぬんだろうと思った。緊張で息ができないのははじめてのことで。隊長が私の顔の横でもぞもぞ動いた時は、いよいよだ、さよなら私の純潔、と思ったが、小鳥のような触れるだけの口付けを頬に落とされただけであった。え?と思っているうちに耳元で囁かれた言葉がこれだから、たまったもんじゃない。耳まで真っ赤にして、隊長の下でじたばたと手足を振り回してみたがびくともしない。人は、恥ずかしすぎて死ぬこともできるんじゃないか。


「た、たい、隊長、私死にそ……」

「お前に死なれては困るな。」

「……これで、終わりですよ、ね?」

「…………何をされると思ったのだ?」

「た、隊長の意地悪……!」


とりあえず退いてください、と駄目元でお願いしたのに、隊長はあっさりと私の上から体を起こした。未だに放心状態の私の腕を掴み、体を起こしてくださろうとしていたので、私も力の入らない片腕で上半身を起こそうとした。が、体を斜め五十度あたりまで起こした辺りで、急に隊長の私を引っ張る力が増し、身を乗り出した隊長のお顔が差し迫ったかと思うと、私の唇に隊長の唇が触れた。そんな一瞬の出来事に、私の全思考回路が停止した。私の唇を奪った隊長の動きがあまりにも滑らかで、隊長は本当になんでもできるんだな、なんて気を紛らわすための余裕ぶった考えもあまり役には立たず、私はそのままソファーから転げ落ちた。隊長の手をすり抜けたこの瞬間に、私は自分に残っていた全部の力を振り絞って、隊首室から脱出するべく、扉に向かって走った。


「しっ、失礼致しました!」

「待……」


扉がバタンと閉じられ、彼女の足音が遠ざかったのを確認してから、私は堪えていた笑をあらわにした。顔の緩みが止まらない。じきに昼休みは終わる。恋次が帰ってくるまでには、いつもの隊長としての顔に戻さなくてはならない。そうだ、彼女には今日の午後、まだ提出していなかった書類を届けさせるとしよう。これでまた彼女と顔を合わせる口実ができる。どんな顔をしてやってくるだろうか。先程会ったばかりなのに、もうこんなに会いたいなんて。私もどうかしている。こうなったら、早く書類を仕上げてしまおう。

私は深呼吸をして、再び机に向かった。




090603