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ひたすらに、全速力で、夜の道を駆ける。頬に打ち付ける夜の風が、まるで鋭い刃のようだった。顔の感覚がなくなり、まるで冷水を打ち付けられたように皮膚がひりつく。

婆様の遺言めいた言葉を聞いてから、私は彼女と何を話したのかは良く覚えていない。私が彼女が三席時代に着ていたという外套の受け取りを拒否してからは、婆様はその件に関しては何も言わなかった。結局夜の二十時頃まで彼女の家に居座り、電球の付け替えや庭の掃除など、彼女の手が回っていないと思しき家事を淡々とこなした。

「明日、仕事あるから。また来週来るね。」

「いいのよ、私のことは。折角の非番なんだから、お友達と……」

「私が会いたいから来るんだよ。」

婆様の気遣いを跳ね除ける。そんなやりとりを最後に、私は彼女の家を出た。

婆様が、いなくなってしまうかもしれない。婆様と別れ、その事実を再度飲み下す。私は、居ても立ってもいられなかった。気付けば私は、夜の流魂街を全力疾走していた。着ていた羽織は肩からずり落ち、下駄の歯は欠け、足袋は土で汚れた。
私はいつの間にか、白道門の前まで来ていた。私は歩調を緩め、瀞霊廷内に入る。涙で湿った頬を拭い、俯いた表情のまま道なりに進む。

今はとても、まっすぐ寮に帰る気にもなれなかった。一人になったところで、私はきっと朝まで泣いたり考え込んだりを繰り返すだろう。このような場合、誰かに話を聞いてもらうことで落ち着いたりすることもある。私は伝令神機を取り出し、たまちゃんの連絡先を開く。

――彼女に話したところで、何になる?

いきなりこんな重い話をされたら、たまちゃんも困るだろう。彼女には仕事の愚痴や戦闘技術の悩みを話すことはあれど、婆様の容態の話について込み入った相談をしたことはなかった。それに、酒を飲んで忘れるような気分でもない。
私は数秒考えた後、そっと伝令神機の電源を切った。私の歩調は次第に緩み、足を止める。私は、一体どこに行けば良いのだろうか。

歩みを止めて、自分の足が既に悲鳴を上げていることに気付く。長時間走ったせいだろう、鼻緒と足の指が擦れ、足袋を履いていても擦り傷になっていることがわかる。私は塀にもたれ掛かり、その場にしゃがみ込んだ。通行人たちは、道端にうずくまる私にちらりと視線を向けては、何も見ないふりをして前を素通りしていく。私は膝を抱え、迫り上げる嗚咽を必死に堪える。

死神になったのも、書道を好きになったのも、カメラが趣味になったのも、全て婆様がきっかけだった。死神として強くなる目標も、婆様のために掲げたものだった。私にとって、婆様の存在はとても大きい。婆様がいなくなってしまったら、私は何を目指して生きていけば良いのだろう。

かつて死神として活躍した婆様に追い付きたくて。彼女に斬魄刀の名前をもう一度聞かせてあげたくて。真央霊術院で頑張れたのは、その目標があったからこそだった。そして念願の護廷十三隊に入り、六番隊に配属された。そこは、偶然にも婆様がかつて三席として活躍していた場所だった。

膝を抱えたまま、一体何分間こうしていただろうか。最早寒さなど気にならない程、私の体は冬と同化してしまったように思える。ひたひたと近付く足音に、私の意識は引き戻された。私の前を素通りする人たちとは違う。明確な意思を持って、こちらに歩みを進めている気配だった。私ははっとして顔を上げる。

「……朽木、隊長……。」

「彩蓮。このような場所で何をしている。」

隊長の顔を見るのは、久々な気がする。隊長は少し驚いた表情で、道端にうずくまる私を見下ろした。そりゃ、そんな顔にもなるだろう。今の私の目は泣いたせいで真っ赤だし、羽織もずり落ち最早羽織の役目を担っておらず、下駄を履いているはずなのに足袋が滅茶苦茶に汚れている。

時刻は夜の二十一時を過ぎている。死覇装を着ているところを見ると、彼は任務帰りと言ったところだろう。私は慌てて、その場から立ち上がる。

こうして道端で丸くなっている間、私は意識的に隊長のことを考えないようにしていたというのに。何故だろう。一度泣き止んだというのに、涙が出そうになる。先程のような不安による涙ではない。胸に込み上げるのは、安堵の感情だとでもいうのか。

隊長は、ただの上官である。いくら彼が彩蓮志貴を慕っているからと言って、彼に話して何になると言うのか。心のどこかで、隊長なら自分の話を聞いてくれると、そう思っていたのか。彼の自分への好意を利用して、彼に甘えようと言うのか。馬鹿を言うな。あれほど彼と距離を取っておきながら、都合の良い時だけこんなことを思ってしまうなんて。

「今日は、非番だと聞いていたが。何かあったのか。」

「ごめんなさい、何でもないです……。」

「嘘を申すな。」

隊長にこの話をすることは、なんとなく抵抗があった。隊長はきっと、親身になって話を聞いてくれるし、私が安心するまで傍にいてくれるだろう。だからこそ、話してしまえば自分はきっとみっともない姿を隊長に晒してしまうし、彼の好意に甘えるだけの女になってしまう。

しかし、こんな格好で道端で放心している女性が何でもないと言っても、説得力は皆無である。隊長はやはり、見逃してはくれなかった。

「婆様の容態が、少し、良くなくて……。」

「志貴殿の……?」

「お見舞いに行ったら、なんだか遺言みたいなこと言われちゃいました……。」

私は力なく笑うが、隊長からの返事はない。
隊長には、話すつもりなんてなかったのに。私は言ってしまったことを、少し後悔する。私は足の痛みを堪えながら立ち上がった。

「……って、なんか私、隊長と話すたびにこの話してますよね、ごめんなさい……。またかよって、感じですよね。」

思い返せば、私が隊長とプライベートの話をする時、大体婆様の体調が良くないという話をしているような気がする。毎度この手の話で隊長に気を遣わせる訳にもいかない。私はひとまず、この話題を一人で持ち帰ることにした。話したところで、婆様の容態が良くなる訳ではないのだから。私は隊長に一礼し、彼に背を向ける。

「彩蓮。」

後から呼び止められる。私は振り向くことはせず、しかし足は止まっていた。隊長なら呼び止めてくれると、心のどこかでそう思っていたから。

「少し、昔話に付き合っては貰えないだろうか。」

私の話を聞くためではない。あくまでも、隊長自身の我儘だとでも言うように。隊長は私の心を見透かすように、私の欲しい言葉をくれた。

隊長が、優しくするから。私はどこまでも愚かで醜い女だ。それでも自分の心は正直で、彼のその言葉に救われた気持ちになってしまう。私は着物の袖でこっそり涙を拭き取り、隊長の方を振り返った。彼は無言で、私の方に手を差し伸べる。彼はいつも通りの無表情だったが、その内に秘められた自分に対する感情を私はもう理解している。それをわかった上で、私は隊長の手を取った。

* * *

カラン、と音を立てて屋根の上に立つ。六番隊隊舎の真上、隊長と肩を並べて祭りの風景を楽しんだことも記憶に新しい。私が隊長に想いを告げられた場所でもある。

一度しか来たことのない場所だが、私は六番隊隊舎の上から見下ろす景色が好きだった。窮屈な視界が開け、心が少し軽くなるような、そんな気持ちがするから。私は肺一杯に冷たい空気を吸い込む。

まるで当たり前のことのように自然と手を繋がれ、私は隊長に引っ張られるような形でこの場所に来た。隊長の家に連れていかれるのだと思っていた私は、自分の厚かましい考えを内心恥じた。好意を寄せられている男性の家に招かれるとなれば、私が嫌がるだろうと考えたのだろう。隊長が私を連れてきたのは、六番隊隊舎の屋根の上だった。

目的地に到着すると、繋がれた手を離される。突然のことに咄嗟の反応が出来なかったが、私はどうやら隊長と手を繋いだままこの場所まで来たらしい。隊長の手はごつごつしていて、指が長くて、ちゃんとした男の人の手だった。私は初めて触れた彼の手の感触を思い出し、遅れて赤面する。男性と手を繋ぐのはこれが初めてだというのに、よりによってお相手が自隊の隊長だなんて。

「この場所であれば、人目もないだろう。」

そう小さく呟く隊長の背中をぼんやり見つめる。彼の真上には真ん丸の月があり、乾いた風が彼の髪を揺らす。その風が一層冬の匂いを孕んでいること以外は、一か月前と同じだった。
私はその場に腰を下ろし、最早足を痛めつけるだけの凶器と化してしまった下駄を脱いだ。足袋の上から傷の部分を撫でると、ひりひりとした痛みが増す。

私が座っても、隊長は私に背中を向けたまま微動だにしなかった。私が話すのを待っているのだろうか。私は今日あった出来事を、どこから切り出そうか迷っていた。

「……五十年以上前になる。私は、妻を亡くした。」

隊長の言葉に、私は顔を上げる。隊長はこちらを向かず、空に浮かぶ満月を見上げたまま言葉を紡いだ。私の方から、彼の顔を見ることはできなかった。

隊長の口から、こうして彼の妻――朽木緋真の話を聞くのは初めてだった。
私は、隊長から目線を外す。何故だろう、隊長が彼女の話をしている時の顔を見たくないと思ってしまった。隊長が今は亡き奥様を愛していたことは、十二分に知っている。きっと、とても辛そうな顔をしているだろう。緋真様以外の他の誰にも、彼をこんな顔をさせることはできないのだろう。だからこそ――

だからこそ、何?

私の胸の内に、ぐるぐるとした何かが渦巻く。こんな感情になるのは、初めてだった。何かがおかしい。私は両手で、自分の心臓をぎゅっと抑え込む。

「私は妻の死期を悟り、深い悲しみに暮れた。残された時間で、私が彼女にしてやれることは何なのか。そして、彼女が旅立った後にしてやれることはないのか。そのようなことを、ずっと考えていた。」

隊長が、こちらを振り返る。恐る恐る顔を上げて隊長を見る。月明りの逆光でよく見えないが、彼はきっと、いつも通りの表情を私に向けている。だって彼は、そういう男だ。

「緋真は最期に、私に言い残した。実の妹を頼む、と。」

「朽木副隊長、ですよね?」

「そうだ。……私が緋真の最期の願いを聞き届けると、彼女は穏やかな表情で息を引き取った。」

隊長は、その遺言を守って朽木ルキアを養子として朽木家に迎え入れた。それは、私も良く知る話である。緋真の妹である朽木ルキアは、緋真の形見と言っても良いのかもしれない。

「そして彼女との約束を守り続けることこそが、今の私が唯一緋真にしてやれることだ。」

亡き妻の願いを聞き入れ、それを守り続ける。隊長は大切な人を失った痛みを乗り越え、しかしその痛みを忘れる訳ではなく、彼女が確かに生きていた証をこの世に刻み続ける。かっこいいな、敵わないな。今の私には、隊長は眩しすぎる存在で。

それでも私は立ち上がり、隊長がいる屋根の淵の方まで歩みを進める。私が立ってもなお、見上げる程長身の隊長。だけどいつか、隊長に食らいついてでも、同じ景色を見てみたいと思った。なんとも身の丈に合わない、傲慢なことだ。しかしそのために私は、自分の力でこの壁を乗り越えなければならない。婆様の死が避けられないものなのだとしたら、私は婆様のために、成さねばならないことがある。

「生命の死とは、避けられないものだ。……だからこそ、その者の言葉を聞き、その魂を受け継ぐことこそが、遺された者たちの役目だと。私はそう考えている。」

私は無言で頷き、隣の隊長の顔を見上げる。すると、丁度目線をこちらによこした隊長と目線が合わさった。

「婆様が――彩蓮志貴が、真に私に願うことは何か。ですよね?」

「……そうだな。それを、一度良く考えてみると良い。」

「ありがとうございます、隊長。」

私は自分が死神になる決断をした際に、彼女に最初に託された願いを思い返す。自分の意思を継いでくれと、そう私に願ったのは、紛れもなく婆様だった。私が婆様の代わりに斬魄刀の声を聞き、その名前を彼女に教えること。それを成すことこそが、きっと婆様にとっての一番だ。

残された時間は、短いように思えるけれど。自分のやるべきことははっきりした。私は精一杯の感謝の念を込めて、隊長に頭を下げる。私に、気付きを与えてくれる人。今の私には、とても手の届かない人。だけど私は彼の後を付いていくのではなく、その隣に並び立ちたいと思った。



(執筆)20200524
(公開)20200620