スロー・フロー・スタート | ナノ
私の視界の隅で小刻みに揺れる鈴が、チリチリと涼しい音を立てた。私の隣に彼女がいるという事実を証明するのには十分すぎる証拠である。
こうして彼女と並んで歩く機会はあまりない。普段は上司と部下の関係であり、共に並んで帰るところを見られると色々と厄介だ。残業帰りの人の目の少ない時間に共に帰ることはあるが、それも人目を気にしつつである。今日は私服の上に夜も遅いということもあり、あまり人の目は気にならない。折角の非番である。出来る限り、彼女との時間を大切にしたいというのに。私の想いとは裏腹に、彩蓮はいつもより少しだけ早足気味だった。
「隊長、今日はありがとうございました!」
「ああ、またいつでも来ると良い。」
「いえ、そんな……私のような者がそう易々と……」
「構わぬ。ルキアもお前と仲良くしたがっている様子だ。」
「……そう、でしたか?」
彩蓮は訝しげな表情をした。それもそのはずだ、彼女がルキアと言葉を交わしたのは今日が初めてである。そのような相手が自分と仲良くしたがっているなど、信じられた話ではない。
しかし、私は何としてでも彩蓮を繋ぎ止めておかなければならない。彼女がルキアと仲良くなれば、屋敷に来る確率も高くなるだろう。ルキアが彼女をどう思ったかはわからないが、今は一つでも多く、彼女と私を繋ぎ止めるための言葉が欲しかったのだ。
「朽木副隊長は、いつ頃から朽木家に来られたのですか?」
「……今から五十年程前だ。」
「そんなに前なんですね……奥様の妹さん、ですよね?」
「……そうだ。緋真の願いもあり、私の妹として引き取った。」
「わあ……すごいですね、愛ですね!隊長は今でも、奥様を本当に愛していらっしゃるんですね!」
彩蓮の憧憬の眼差しに、私は思わず顔を逸らした。彼女の口から緋真の話が出ると、決まって私は言いようのない罪悪感に胸が締め付けられるのだ。それが緋真に対するものなのか、彩蓮に対するものなのかはわからない。彩蓮は度々、私の心を推し量るように彼女の存在を口にした。まるで、私が今でも緋真しか愛していないということを、確認するかのように。
だから私は、彩蓮のこのような言葉の後に必ず黙り込んでしまう。それは私の、ほんの些細な抵抗だった。私の気持ちに気付いて欲しい反面、それを確固たる事実として彼女に伝えてしまう勇気はなかった。言葉にしてしまえば簡単に伝わるだろうけど、同時に今と同じ関係に戻ることはできなくなってしまうだろう。
彼女は薄々私の気持ちに気付いているはずだ。しかし、その気持ちを否定して欲しくてたまらないのだろう。私は、今でも緋真一人を愛し続けていると。彩蓮には特別な感情は一切抱いていないのだと。残念ながら私は、自分の気持ちを押し殺してまでそれを否定してやれる程思いやりのある男ではない。
彩蓮もその先の言葉を促すことはしなかった。なんとなく気まずい雰囲気の中、彩蓮の足が少しだけ早くなった。隊舎寮まであと少しというところまで来て、私はふと我に返った。折角二人きりの時間を手に入れたというのに、このままで良いのだろうか。私は半ば衝動的に、彩蓮の細い手首を掴んだ。大きく肩を揺らした彼女は、恐る恐るこちらを振り向いた。
「た、隊長……?」
「…………。」
「……隊長、どうかなさいましたか?」
「……すまぬ、野暮用を思い出しただけだ。」
私は体中の体温が冷え切っていくのを感じた。彩蓮の手首を掴んでいた手からは力が抜け、肩からだらしなく垂れさがった。私を捕らえる彼女の目は、恐怖の色を宿していた。気付きたくないものに、気付きかけてしまったかのような、そんな表情だ。
「で、では私は、ここで失礼致しますね。」
「彩蓮……」
「送ってくださり、ありがとうございました!」
「彩蓮、待て。」
私に向けた背中が、ぴたりと止まった。彼女は振り向こうとはしなかった。きっと、私が怖くて怖くてたまらないのだろう。自分に好意を寄せていると思しき、一人の男のことが。
「先ほどの問いに、答えよう。」
「問い……?」
「私が緋真を、今でも愛しているかという話だ。」
彩蓮の息を呑む音が聞こえる。耳鳴りが聞こえてしまう程の静寂に、ひっそりと風が吹いた。大きく息を吸い込めば、彼女と私の間を抜けた風が私の乾ききった喉を痛い程刺激した。
「私が愛しているのは……」
「た、隊長!その話はもういいです!」
悲鳴にも似たその声は、静かな秋の夜に程よく響いた。遮られた言葉の続きが、待ち遠しそうに私の口元に留まっている。残念ながら、その言葉は望まれないものだったようだ。私は体の芯が凍り付いて行くような感覚に陥った。
どうやら彼女は、私を恋愛対象としては見てくれないらしい。こうもはっきりとした拒絶の言葉を向けられてしまっては、私はこれ以上何も言うことができないではないか。私は結局、彼女の中の特別にはなれないのだ。そうわかってしまえば、私の取るべき行動は一つしか残されていない。
私は大げさに溜息をついてみせた。恐る恐る顔を上げた彩蓮に、呆れ顔で言い放った。
「……何を勘違いしている。」
「え、か、勘違い……?」
「私が愛しているのは、後にも先にも緋真只一人だけだ。……念のため言っておくが、お前は私にとっての優秀な部下の一人であり、それ以上でもそれ以下でもない。」
取って付けたような嘘である。自分を恋愛対象から外してしまうようなこの一言を言うことだけは、なるべく避けたかったのだが。それでも、彩蓮に避けられてしまうよりかは、こうでも言って繋ぎ止めておく必要があった。
彩蓮は実に単純である。私のその一言を耳にした途端、とても安心した表情を見せた。一件落着と思えば良いのだが、自分に好意を抱いていないと知って安心されているその様を見ると、あまりの脈の無さに悲しさを覚える。
「私も隊長のこと、とても尊敬しています!これからもお仕事頑張ります!」
「ああ、お前の働きにはいつも助かっている。」
彩蓮はとても上機嫌だ。彼女には悪いが、その言葉の七割以上は嘘である。彩蓮は優秀な部下ではあるが、それ以上に彼女は私の想い人であり、彼女が上司として慕っている私は、実は彼女を狙う一人の男でしかないのだ。
取り返しのつかない嘘をついてしまった。私を痛めつける罪悪感は、もはや私一人で抱え込める程のものではなくなっていた。きっとこの先も私は、彼女が安心しきっているのを良いことに、優秀な部下への気遣いと称して彼女をやたらと構い続けるのだろう。その裏側に隠された、ただ単に彼女の側にいたいだけだという下心を隠しながら。
(執筆)130402
(公開)131230