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襷で袂をぎゅっと縛れば、乱れた心も引き締まる。久しぶりの感覚に、私の胸が高鳴った。すっと目線を上げると、少しだけ目を丸くした朽木隊長と目が合った。

「……見事なものだ。」

「え、何がですか?」

「今の一瞬で切り替えができるとはな。……志貴殿の目と、とてもよく似ている。」

「そうですか?初めて言われました。」

婆様の目はどちらかと言えばつり目で、私はたれ目だ。似ていると言われたことはない。血が繋がっていないのだから、当たり前の話だが。
上手く話が呑み込めていない私に、隊長は付け加えて言った。

「私が言ったのは、書道に臨む際の目付きの話だ。」

「書道に臨む時の目付き、ですか……。」

私は婆様の目を思い出す。婆様は字を書く際、とても真剣な顔をする。文字は己の心を表現するものであり、書道とは、自分の心と対話することでもある、と。よって、気持ちの入った文字を書くには、自分の心と真剣に向き合う必要があるのだ。
婆様の真っ直ぐ一点を射抜くような目。私が猛烈に憧れた目だ。その目に、私の目が似ていると隊長はおっしゃった。日ごろ自分の目を自分で見ることがないため気付くことができなかったが、隊長に言われて初めて気付いたことである。私はどうやら、婆様に近付くことができているらしい。

今日は折角ということで、畳一畳を覆ってしまうほどの大きめの紙に、私の身長ほどはあるであろう大きな筆で字を書くという、少し変わった書道を隊長に教えていただくことになった。私は普通サイズの半紙に普通サイズの筆で字を書いたことしかない。このように大規模な書道は初めてなので、内心とてもわくわくしていた。私の寮ではできない種類の書道である。如何せん、場所をとても取るのだ。お世辞にも片付いているとは言い難い私の家では実現不可能である。

「では、始めるか。」

「はい!宜しくお願い致します!」

まずは隊長のお手本を見てからである。隊長はその巨大な筆をひょいと持ち上げ、滑らかな動きで半紙にでかでかと黒い痕跡を刻み付ける。滑らかなその動きに、私は思わず息を呑んだ。隊長が残した痕跡も、速度も、払いも、筆を持つその体勢も、それを見つめる真剣な眼差しも、一挙一動が、否、彼の生み出す空間の全てが芸術品のような美しさを醸し出していた。私は隊長のその姿を、息を詰め、瞬きも忘れて見つめていた。

そこに刻まれたのは、志という一文字。力強いだけではない、隊長の繊細な手の動き一つ一つを感じさせるような、とても美しい形の文字だ。私は思わず感嘆の溜息をついた。

「あ、あの、隊長、この半紙いただいてもよろしいでしょうか!?」

「……馬鹿を言うな、荷物になるぞ。」

確かに、こんな大きな紙を飾るスペースなど、私の部屋には存在しないのだが。だけど私は、隊長の書かれる文字を、いつでも目にすることのできる場所に飾っておきたかった。それほどまでに、私は隊長の字に心酔しているのだ。それこそ、婆様と同じぐらいには。

こんなに素晴らしいものを見せていただいた後に書くのは申し訳ないが、次は私の番だ。隊長から渡された大きな筆を抱え込む。背比べをしたらいい勝負になるんじゃないか、と思える程大きなその筆は、墨汁を吸わせると一気に重くなった。書く文字は、志という字。隊長と私を繋ぎ止める字、と言っても過言ではない。巨大な半紙に筆先を落とせば、じわりじわりと黒い滲みを作った。

力加減はどうするべきか。どう動かすべきか。私は初めてのことに混乱していた。横に線を一本引くだけの簡単な作業が、とても難しい。普段の書道とは全く別物だ。

「た、隊長!動かし方がいまいちよくわからないのですが……!」

「……仕方のない奴だ。」

両手で必死に筆を支える私の背中に、気配を感じた。後を振り向くよりも先に隊長の白くて大きな手が私の前に回され、その大きな筆を掴んだ。私は思わず筆を離しそうになった。

私は今、後から隊長と密着した状態で指導を受けているらしい。幸い隊長の手が長く、身長差もあるために完全に密着した状態からは逃れることができたが、少し下向きの隊長の顔がすぐそこにあるのが手に取る様にわかった。

「彩蓮、肩の力を抜け。力が入っていては書けるものも書けぬ。」

「え、あ、ごめんなさい!」

「腰を曲げるな。体の重心は――」

隊長の言葉が、右耳から入っては左耳から抜けていった。近い、近い、近い。いくらなんでもこれは近すぎる。男の人とこんなに長時間密着したのは生まれてこの方初めてである。長時間と言ってもまだ数十秒だが、私にとってはそれすらも長時間である。それもお相手は朽木隊長だ。触れることすら恐れ多いと思っていたあの隊長と、こんな状況で密着しているのだ。きっと隊長は何も意識せずにやってるのだろうけれど、もしも、本当にもしも、隊長が私に気があってこのようなことをしているのだとしたら。下心があったとしたら。顔に血が集まって行くのを感じた。

「隊長!近いです!」

「あ、ああ、済まない。」

急に恥ずかしくなった私が、隊長が囲った腕の中から逃れるようにしてそこから足を退ければ、そこは墨汁がたっぷりと溜まった硯で。ばしゃりと嫌な音がしたと思えば、私の右足は思い切りそれを蹴飛ばしていた。私の白い足袋と褄先をどくどくと浸食する黒。しかし、そんなことはどうだっていい。黒い墨汁はそのまま畳へと流れ出していったのだ。私は悲鳴にも近い声を上げた。

「た、畳に!隊長!雑巾は!」

「いや、構わぬ。それよりも……」

「ないんですか!?ど、どうしよう、とりあえず私の着物で拭いて……」

「彩蓮。落ち着け。」

私は半泣き状態である。自分の勝手な妄想で隊長のご指導を跳ね除け、硯をひっくり返し、畳を汚す。大失態である。畳を弁償するにしても、これは給料一か月分では済まされないかもしれない。

隊長はゆっくりとした動作で持っていた筆を置き、硯を元に戻した。垂れ流されたままの墨汁は小さな川を作るにまで至った。それを見ても隊長は何も言わず、使用人の方を呼んだ。間もなくしてやってきたのは、やはり松葉さんである。

「松葉、墨汁の片付けを頼めるか。」

「はい、承知いたしました。」

「代えの着物も用意させろ。彼女の着物を汚してしまった。」

え、なんで。そう言い返そうとしているというのは隊長にはお見通しだったのだろう。私が何か言葉を発するよりも前に、隊長の鋭い眼光がこちらに飛ばされた。私は怖気づいたようにしゅんと下を向いた。

全て、私が悪いというのに。何故隊長はここまでして私を庇ってくださるのだろうか。私は自分の不甲斐なさに嫌気が差した。隊長の純粋なご厚意に基づいたご指導を踏みにじり、畳を汚し、おまけに着物まで借りさせていただくなんて。これではまるで私が朽木邸を荒らすだけ荒らして帰る人みたいではないか。

片付けは、滞りなく行われた。私は別室に移され、用意された代えの着物に着替えを済ませた。汚してしまった着物は松葉さんに持っていかれてしまったのでどうなったかはわからない。何はともあれ、用意された方の代理の着物の方が、私が着ていた一張羅の着物よりずっと高価なものではるということは、その肌触りから丸わかりであった。着替えが終わった私は、恐る恐る隊長がいる部屋の襖を開いた。

「着替え終えたか。」

「はい……。あの、隊長、どうして……」

「原因を作ったのは私であろう。」

隊長はしれっと答えた。隊長との距離があまりにも近くて飛びのいたのが事の始まりなのだから、まあ、確かにそうなのだけれど。だけど、ひっくり返したのは紛れもなくこの私だ。隊長はきっと、下心など関係なしに私にご指導してくださっていたというのに。私は自分の行動を恥じた。

未だにもたもたしている私をよそに、隊長は箪笥の中から新しい半紙を取り出した。普通の大きさの半紙である。

「お前には、こちらの方が向いているようだな。」

「はい、自分でもそう思いました……。」

折角隊長が教えてくださるとのことだったのに、結局私が台無しにしてしまったようだ。それも、隊長に謝らせてしまうだなんて。申し訳なさすぎる話だ。

そんな私をよそに、隊長は一人で悠々と墨を摺り始めた。硯と墨が擦れ合う心地よい音が部屋に響く。

「彩蓮、好きな言葉は何だ。」

「好きな、言葉?」

「着物の詫びと言っては何だが、お前の好む字を書いてやろう。」

隊長が、私のために、私の好きな言葉を。不安げに傾いていた私の眉が、ふわっと解けた。私もわかりやすい女である。隊長のお言葉一つ一つに一喜一憂する私はなんだか犬みたいだ、と思った。




(執筆)130325
(公開)130328