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私が目を覚ましたのは十一時だった。久しぶりの非番ということもあり、気を抜きすぎていたらしい。慌てて飛び起きた私は洗面台へ直行し外出の支度を始めた。
今日は朽木隊長のお屋敷にお邪魔させていただく日である。出来る限り身なりをきちんと整えてから行こうと思っていたというのに、これでは準備に三十分もかけられない。幸い寝癖の付いていない髪を丁寧にとかし、短い髪を一つにまとめる。前日に用意しておいた一張羅の着物を身に纏う。鏡の前でくるりと一回転すれば、髪飾りの鈴がシャラリと心地よく鳴った。戦闘職で普段は付けることができないため、一か月に一回日の目を見れば良い方というなかなか使い道のない高級な髪飾りである。仕上げの化粧で目の下のくまを執拗に隠し、書道の道具を持って寮を飛び出した。

昼近くの寮はからっぽでとても静かだ。頭に乗せた鈴が軽快に揺れる音がする。そういえば手土産とかいるのだろうか。何も用意していない。そうこう考えている間にも長針と短針の幅はどんどん狭まっていく。私は時計の針を見ながら小走りで朽木隊長のお屋敷へと向かい、朽木邸に到着したのは十二時の一分手前だった。隊長は、ご丁寧にも門の前まで迎えに出て来てくださった。

「こ、こんにちは、朽木隊長!」

「ああ、お前はいつも忙しないな。」

「申し訳ございません、今日こそは時間に余裕を持ってと思ったのですが……」

「構わぬ。入れ。」

この大きな門扉は、何度見ても慣れない。といっても、目にしたのは精々三回程度である。以前死神を現世に送り出すという穿界門を見たことがあったが、下手したらそれより大きいんじゃないか。第一、門をこんなに大きくする理由は果たしてあるのだろうか。
隊長の家を見ていると色々と思うことが沢山あるのだが、平民である私がどんなに考えたところでその意味を知ることはできないのだろう。

「彩蓮、足元に気を付けろ。段差があるぞ。」

「あ、はい!」

「……その荷物を貸せ。」

「いえ、隊長のお手を煩わせてしまう訳には……」

「良い。貸せ。」

半ば強引に荷物を取り上げられる。少し重かったので助かることは助かるのだが、ここまで気を遣っていただくとかえって申し訳ない気持ちになってくる。玄関への道のりがやけに長く感じられた。

「今日はお前を、私の門下生として招くということになっている。」

「……え、えええ!?隊長の門下生!?」

「位を持たぬ者を招くとなると何かと屋敷の者が煩い。故にそのように伝えてある。」

隊長の話を聞く限り、門下生という設定、ということらしい。前の奥様のこともあり、朽木家の方々は隊長が流魂街の血の者と必要以上に接点を持つことを嫌っているようだ。私が門下生ということになっているのは、隊長のせめてもの気遣いなのだろう。しかしそうなってくると、そこまでして呼んでもわらなくても、という今更な感想を抱かざるをえない。

正面玄関から、隊長に連れられて入ったのは五月以来である。やはり使用人の方々の痛いほどの視線を感じる。隊長のお屋敷とは釣り合わないほどの安物の着物を身に纏った私は、きっと浮いて見えてしまうほど貧相な恰好なのだろう。精一杯のお洒落をしてきたつもりだったが、今では髪飾りの鈴の音までもが疎ましく感じてしまう程だ。私はなるべく気配を消すように、肩をちぢこませながら隊長の後を付いて歩いた。それでも私の頭の上の鈴は、私の存在を示すようにチリチリと小さく鳴いた。

私が通された部屋は、隊長の私室の隣の部屋だった。促されるままにその場に座れば、一畳ほどの間を開けて私と向かい合うように隊長が腰を下ろした。なんだろう、この微妙な距離感は。もどかしい空間の向こう側の隊長は、正座する姿さえも本当に美しい。すらっと伸びた背筋に、凛とした高貴な表情。流れるような黒髪は、きっと私がどんなに苦労して髪のお手入れをしたって手に入らないほど美しい。それに比べて、隊長の目に私はどのように映っているのだろうか。小さな体になよっとした表情。前髪不在のために広々と開いたおでこ。思わず顔から火が出てしまいそうだ。

「白哉様、お持ち致しました。」

「入れ。」

がらりと襖が開く。以前もお見かけした松葉さんが、お膳を運んできてくださっていた。どうやら書道の前にお昼ご飯らしい、手伝わなくては。私は思わず立ち上がりそうになった。

「彩蓮、お前は座っていろ。」

「は、はい、申し訳ございません!つい癖で……」

松葉さんはくすくすと面白そうに笑っていた。ああ、なんという大失態。これでは庶民丸出しではないか。赤くなった顔を隠すため下を向いていた私の前に、立派なお膳が置かれる。普通に生きていたらきっと一生口にすることができなかったであろう、色とりどりの食べ物。朝ごはん食べてこなくてよかった、などと少しだけ図々しいことを考えてしまった。

「では、ごゆっくり。」

「はい、ありがとうございます!」

部屋の手前でちょこんと頭を下げる松葉さんに元気よく挨拶をする。大きな声での挨拶は人間関係の基本である。そう思ったが、松葉さんはまたおかしそうに笑って部屋を出ていってしまった。完全に羽目を外したパターンである。

「……た、隊長、申し訳ございません……」

「何故謝る必要がある。」

「わ、私、このような場合どう振る舞えば良いのかわからなくて……隊長の顔に泥を塗るようなことをしてしまい、本当に申し訳ございません……。」

「……何を申す。私は自分の部下を恥じるほど、器の小さい男ではない。」

隊長はそう言うと、お膳の前で手を合わせた。いただきますの合図だろう。私も慌てて隊長に倣って手を合わせる。恐る恐る漆塗りの箸を取り、赤に金箔入りという豪華な食器に目を眩ませながらも、まるで美しい景色でも見ているかのようにそれを眺めた。

「あ、カメラ……」

「忘れてきたのか。」

「はい、折角なのでこのお食事を撮らせていただこうかと思ったのですが、家に置いてきてしまいました……。」

「……また来れば良かろう。次はお前が好むものを用意させよう。」

「いえ、そんな滅相もないです!私そういうつもりで言った訳ではないので!」

顔の前でぶんぶんと手を振れば、隊長の残念そうなそうか、という声が返ってくる。私は私で今の状況に精一杯で、そんな隊長の言葉に一々反応していられる余裕は持っていない。こんなもてなし方をされてしまって良いのだろうか。これはもしかして後から多額の金が請求されたりするのだろうか。受講料と食事代で私の一か月分の給料の半分は消えてしまうのでは。嫌な考えがぐるぐると頭の中を回る。箸でつまんでいた高野豆腐ですら、金の重みか汁の重みか、ずしりとした重量を含んでいる。

「どうした、食欲がないのか。」

「い、いえ、あの……おいくらでしょうか……」

「……何?」

「いえ、その、受講料とか、お食事代とか、いるのかなぁと……」

私の言葉を聞いた隊長は呆れ顔だった。

「私は部下から金を巻き上げるような趣味は持っていない。」

「しかし、こんなに至れり尽くせりでは、こちらとしてはお返しするものが何もないと言いますか……」

カタン、と箸が置かれる。眉間にしわを寄せた隊長。何か気に障ることを言ってしまっただろうか。私は不安のあまり、高野豆腐を持ったまま箸をフリーズさせていた。

「今日一日は、お前の時間を貰えるのだろう。……それで十分だ。」

隊長の目は確かに私を見ていて、それは確かに私に向けられた言葉だった。空っぽの口がぽかんと開く。隊長は言いたいことを一方的に言い放ち、そのまま食事に手を付け始めた。私もとりあえず、と高野豆腐を口の中に放り込んだ。

隊長の言葉を何度も反芻する。この数多くの至れり尽くせりな対応の等価交換としては、今日一日分の私の時間で十分だ、と。隊長は確かにそう言った。むしろ隊長のお時間を頂戴している身だというのにそれはないだろう。この言葉も隊長の精一杯のお気遣いなのだろうか。それとも、隊長は――

私は慌ててその考えを打ち消した。ありえない、そんなの絶対にありえない。隊長は今だって奥様のことを想っていて、そのことは私がこの目で確認したことだ。そして私はふと気付く。目では確認しても、隊長の口からは聞いていない。私が一言隊長に聞けば全てが解決するだろう。隊長は今でも奥様を忘れられずにいるのですか、と。
だけどそれを訊いてしまえば、きっともう後戻りはできないだろう。私には、その答えを聞く勇気がなかった。曖昧なまま、こうして悶々と悩んでいる方が、ずっと居心地が良い。

そんなことを考えながら食べた超高級なお昼ご飯。隊長には悪いけれど、その味は全く思い出せなかった。




(執筆)130325
(公開)130327