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松本と鹿野枝の黄色い奇声と、辛うじて聞こえる彩蓮のか弱い悲鳴。その会話はあまりよく聞き取れないが、私の全神経はそちらに持っていかれてしまった。形だけ開いている本の内容は全く頭に入ってこない。いつの間にか彼女たちの奇声は消えて無くなっていた。それでも私は、そのどよめきの中に彩蓮の声を探していた。同じページと何分間見つめ合っていただろうか。私の上に影が落ちた。

「あ、あの、朽木隊長……」

声につられて顔を上げた私は、思わず息を呑んだ。息を切らした彩蓮が、恥らうように手で前を隠しながら、少しだけ頬を染めていた。私は暫く息をするのを忘れていた。

「…………。」

「た、隊長……?」

「彩蓮……上着はどうした。」

「それが、松本副隊長たちに奪われてしまいまして……」

そう言って力なく笑った彩蓮は、私の横に腰を下ろした。何かを探すようにきょろきょろと荷物の方を見た後、残念そうに溜息をついた。

「何か探し物か?」

「あっ、いえ、なんでもないです!そうだ、焼きそば食べちゃいましょう!」

彩蓮は買ったまま置きっぱなしにされていた焼きそばに手を伸ばした。ご丁寧に二パック用意されいるところを見ると、もう一つは私のために用意されたものだろう。このような場所で焼きそばを食べたことがないので私の口に合うかどうかはわからないが、折角買ってきてもらったものだ。食べなければ申し訳ないだろう。

しかし実際は、焼きそばを食べながらもその味を味わっているどころではなかった。私の目はちらちらとこっそり彩蓮の体を捕らえては前を向き、の繰り返しであった。普段は死覇装を着ている故わかりにくかったが、水着を着てしまえばそれは明らかだった。彼女の胸は、お世辞にも大きいとは言えないものだった。彩蓮は身長が低い。まだこれから大きくなる可能性はあるだろう。彼女が上着を着ていた理由を、なんとなく悟った瞬間だった。

それを除けば、彩蓮の体は女性のものだった。綺麗な足にくびれ、うっすらと割れた腹筋。無駄な肉付きは見受けられない。本当に、胸に関しても無駄がない。少し力を入れて抱き締めたら簡単に折れてしまいそうだ。……私は何を考えているのだ。

「隊長、お口に合いましたか?」

「ああ、なかなかに美味だ。」

「本当ですか、よかったです!」

本当は味わっている余裕などない、とは口が裂けても言えない。彼女を女性として意識してしまった以上、彼女のこの姿は些か刺激が強すぎるようだ。私とて一人の男である。気になる女性のこのような姿を目の当たりにして何も感じるなというのは、無理がある話だ。私らしくもない、情けない話である。

「……隊長は、泳ぎたくないんですか?」

「泳ぎたそうに見えるか?」

「いえ、見えないです……。」

海の方に目を向ければ、死神たちが人間に混じり楽しそうにはしゃぎまわっている。異様な光景だが、なかなかに面白いものだ。

「でも、折角水着を着ていらっしゃるのに勿体ないじゃないですか。」

「それはお前も同じことだろう。」

「私は泳ぐのが苦手なので……それにこれは、無理矢理着せられたもので……本当はこんな格好人前に晒したくないのに、松本副隊長たちが……」

彩蓮は眉を吊り上げ、焼きそばを頬張りながらもごもごと愚痴を吐き出し始めた。海へ行くなら気分だけでも、と言って無理矢理買わされたらしい。上着を羽織っていたのは、やはり肌を見られたくないためだったらしい。

私は空になったパックを輪ゴムで閉じ、シートの上に置いた。自分の羽織っていた上着を脱ぎ、彩蓮の肩にそっと掛けてやる。彩蓮は驚いたように顔を上げた。

「あ、あの、これは……?」

「……女性が簡単に肌を晒すものではない。着ていろ。」

「あ、ありがとうございます……。」

彼女のためか、自分のためか。肌を晒したまま居辛そうにしている彩蓮を見てるのが可哀想だったからというのも一理あるが、それは恐らく理由の一部分にすぎない。ただ単に、彼女の肌が他の男の目に留まることが嫌だと感じた。だから上着を彼女に掛けた。それだけの話だ。

水着を着て肌を晒している状態が普通であるこの海水浴場でこの言葉は、少し違和感のあるものだったかもしれない。まるで彼女だけに向けられた優しさのような、数々の女の中で彼女だけを気遣うような、そんな言葉だった。それでも私は、あえてこの思わせぶりな言葉を選んだ。

その言葉の意味を考えているのだろうか、彩蓮はまた黙り込んでしまった。そのくせ沈黙が辛そうな表情である。実際、少し気まずいのだろう。私は当たり障りのない話題を選び、彼女に会話を促した。

「……彩蓮、志貴殿の具合はどうだ。」

「あ、お陰さまで、今は元気になりました!」

「そうか……何よりだ。」

「朽木隊長の奥様は、お元気でいらっしゃいますか?」

私は一瞬、間を置いた。少々おかしな言い方だが、今まで何度彼女の口からこの質問を待ち望んだことか。元気か、と問われれば。答えは明確である。数か月の間ずっと解かれることのなかった誤解が、今解かれようとしている。

「緋真は……私の亡妻だ。」

「…………へ?」

「五十年以上前に亡くなった。」

彼女と私の間に一線を置いていたその事実を、取り払ってしまえば。私が彼女を好く可能性も、彼女が私を好く可能性も、私と彼女が上司と部下以上の関係となる可能性も、全てが実現可能なものとなる。これまで彩蓮の中で構築されていた私の像など、この際どうでも良い。どう思われても良い。ただ、このまま彼女の中にある誤解を解かずに放置したままでは、私はいつまでも彼女の尊敬の対象以外の男にはなることができないのである。

「今は、独りの身だ。」

戦いの火蓋は切られた。もう、後戻りはできないだろう。この真実を伝えてしまえば、私と彼女の間には女を求める男と男を求める女の関係が出来上がるのだ。先ほどの思わせぶりな言葉だって、きっと今の彼女になら意味がわかるはずだ。明確な意図はわからずとも、彼女の心に揺さぶりを掛けることぐらいならできたはずである。

私はきっと、彼女を守りたい訳でも、傍で見ていたい訳でも、そして気を掛けてやりたい訳でもない。私が彼女に抱く想いは、そんなに生易しいものでは収まり切らない。私は彼女に触れたい。抱きしめたい。口付けたい。そして、人一倍健気で努力家な彼女を全力で支える存在でありたい。彼女の心の拠り所になりたい。
愛おしい。もう、どうしようもなく愛おしいのだ。一度認めてしまえば、それは収まりのつかない感情となって溢れ出した。私が彼女に惹かれる理由など、わからないが。それでも理屈では言い表せない程、私の心は彼女への想いで満たされていた。

恋、という言葉が、私の中にストンと落ち着いた。




(執筆)130321
(公開)130324