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何となく嫌な予感はしていた。

「ほらほら京葭!上着なんて脱いじゃいなさいよ!」

「い、嫌!やめて!!」

「ほら!水!水かけるよ!脱がないと上着濡れるよ!」

「いやだ!絶対いやだ!!!」

松本副隊長とたまちゃんの手には巨大な水鉄砲。それを持って全速力で追いかけてくる二人から、今まさに逃げている真っ最中である。私の最大の防御はこのカメラだ。カメラがある限り、迂闊に水鉄砲の引き金を引くことはできないだろう。もし水でもかかったら弁償ものである。そこまでのリスクを冒して容易に引き金を引くほど愚かではないはずだ。……と、思うのだが、それがこの二人に通用するのかどうかは定かではない。

「脱ぎません!日焼けするし!」

「日焼け止めなら買ってあるよ!」

「それでもいや!いやなものはいや!」

「朽木隊長も見たがってるわよきっと!ですよね、朽木隊長ー!」

「ちょっ、呼ばなくていいですって!」

隊長の方に目をやると、ものすごく怠そうな視線をこちらに向けた。彼の手には一冊の本。恐らく自宅から持ってきたのだろう。この場所で読書など、もはや海水浴に来ているとは思えない男だ。それが隊長らしいというのもあるけれど。

写真を撮ってくれ、と松本副隊長に呼ばれた時。私は少し安心した。この空間から逃れられる、と。先ほど私は男三人組に絡まれた。その時に隊長が助けにきてくれて、私は無事その場から逃れることができたのだが。

――京葭。

唐突に放たれた、私の下の名前。隊長はいつものような無表情で私の名前を呼んだ。腕を掴まれ、引き摺られるようにして元の場所に戻された。隊長が純粋な好意でしてくださったことだということは、十分理解している。

隊長に下の名前で呼ばれたのは初めてだった。まず、隊長の妹さんである朽木副隊長と奥様以外の女の人を、下の名前で呼んでいるところを見たことがなかった。それ以外だと、私が知っている限りでは阿散井副隊長ぐらいである。それなのに、何故。
答えの返ってこない問いかけを、頭の中で何度も何度も繰り返す。わからない。私は今まで、男の人と関わったことがあまりなかった。だけど、下の名前で呼ぶのは比較的仲の良い男女がするものだということはなんとなく知っている。それに、あの朽木隊長である。彼がただの隊士を下の名前で呼び捨てにするだろうか。

松本副隊長もたまちゃんも、朽木隊長は京葭のことが好きなんだ、と常々耳にタコができるほど言っている。しかし皆は知らないようだが、彼には奥様がいらっしゃる。写真をわざわざ持ち歩いているところを見ると、仲の悪い夫婦のようには思えない。もしかしたら、本当に浮気なのだろうか。私は彼の不倫に加担しているのだろうか。いや、自惚れているにもほどがある。あの隊長が、この私を好きになるなんて。あり得ない話だ。

そう、だからあの時二人が私を呼んでくれてとても助かったのだ。隊長と何を話せば良いのかわからなくなり、悶々と一人で悩んでいた私に逃げ道をくれた。だから、感謝していたというのに。

「もう、こうなったら無理矢理脱がせちゃいましょう!珠緒、京葭を押さえて!」

「ラジャーです!」

「や、やめ、やめて!」

たまちゃんに後を取られたかと思うと、羽交い絞めにされる。完全に見動きの取れなくなった私は、情けない声を上げながら足をばたつかせた。松本副隊長の手が上着のファスナーを思い切り下におろした。

おかしいとは思っていた。あれだけ水着にこだわっていた彼女たちが、私に上着を着ることを許すなんて、今思えば甘すぎる話である。元から私に上着を着せる気なんてなかったんだ。しかし、それに気付くには少々遅すぎたらしい。

私が下着同然の姿にひん剥かれたのはまさに一瞬の出来事だった。手馴れた手つきで上着を脱がされた私は、上半身を隠すように自分の体を手で隠し、その場にへなへなとうずくまった。ああ、どうしよう。こんな姿を晒しながら人混みの中で過ごすなんて。どうせ上着を着るからと思って胸パッドは入れてきていない。私は今にも泣きそうな表情で二人を見上げた。

「か、返してください……」

「これどうしましょうか!」

「とりあえず京葭は朽木隊長のところに行ってきなよ、ね?チャンスだよチャンス!」

「や、やめ……」

私の必死の懇願も空しく、上着を持った松本副隊長とたまちゃんは揚々とした足取りで人混みの中へ消えていった。私はその場から動くこともできず、足元の砂を浚っていく波の模様をただ淡々と眺めていた。

これはもしかしたら、いじめなんじゃないか。そう思ってしまうほどにはこの二人の行動は酷く身勝手なものである。ただのパワハラだ。どうしよう。これからどうしよう。チャンスもなにもないじゃないか。もし私が松本副隊長みたいなグラマラスボディの持ち主だったらそりゃそれはチャンスと言えるのかもしれない。だけど私はこれである。それ以前に隊長は既婚者だ。チャンスが起こってはいけない事態なのである。

しかし、ここでずっとこうしている訳にもいかない。どうやらこのビーチには先ほどの男三人組のような軽薄な男が蔓延っているらしい。先ほどからちらちらと視線を向けてくる男が何人か見受けられる。そして今まさに、一人のチャラそうな男が私の方に向かって足を進めてきているではないか。厄介ごとに巻き込まれる前に、逃げなければ。隊長の所に戻るしかなさそうである。隊長の隣にいれば、私が男に付け狙われることはないのだから。それに、もしかしたら荷物置き場に誰かが持ってきたバスタオルか何かがあるかもしれない。それを巻いておけば良いだけの話である。私は慌てて立ち上がり、一目散に隊長の待つ荷物置き場へ走った。

どう足掻いても彼女たちの思惑通りに動いてしまう自分が悔しい。だけどやっぱり、隊長の隣に帰ってくるのはとても落ち着くのだ。周りが何と言おうと、彼は奥様一筋だ。私の知っている隊長は、浮気をするような浮ついた男ではない。隊長が私を邪な目で見るようなことは一切ないのだ。だから、このような場所において隊長の隣にいるのはとても安心する。……というのも、私の考える隊長の像が前提だった場合の話だが。




(執筆)130321
(公開)130323