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周りの音全てを掻き消してしまう雨の音も、ひんやりした空気も、足元の水たまりも、今なら少しだけ好きになれる気がする。そう思わせてくれるほどに、隣の隊長は優しかった。一見普段通りに見えても、私には彼の気遣いが痛い程良くわかった。

隊長は私の前を歩くことなく、私の歩幅に合わせて隣を歩いてくれた。隊長の隣を歩くなんておこがましいとも思ったが、それが隊長の気遣いだとわかった私は、甘んじて隣を歩くことにした。隊長にこんな気を遣わせてしまっている自分が酷く情けなくて、私はなるべく早足で歩こうとした。が、速く歩けば隊長と一緒にいられる時間が減ってしまう。そんなジレンマを抱きながらも、私たちはなんともない会話を続けていた。

「……時に、彩蓮。」

「はい、なんでしょう?」

「今朝、恋次に聞いた話なのだが……」

私は思わず傘を落としそうになった。動揺を悟られぬよう、傘でこっそりと自分の顔を隠す。
まさか隊長自らその話題に触れてくるとは。こうも直球でその話題に触れられると思っていなかった私は、何と返せば良いのか戸惑ってしまった。

「今朝のとは……」

「彩蓮とはどういう関係なのか、と問われたが、あれは一体何だ。」

何だ、と訊かれても。私が訊きたいぐらいである。それにしても、副隊長が本当にそのような質問をしていたとは。私はひっそりと肩を落とした。
これは全て私の責任だ。あんな場所で写真を見せたりしたから。隊長は婆様に見せるつもりで撮ってくださった写真だというのに、それをあんな形で公衆の面前に晒してしまった。その結果招いた誤解である。昨日の自分の浅はかな行いに、思わず鳥肌が立った。

「……頂いたお写真を、見られてしまい……」

「屋敷での写真か。」

「はい、阿散井副隊長と、松本副隊長と、吉良副隊長と、十番隊の鹿野枝十八席に……そしたら、その、あらぬ誤解を招いてしまったようで……」

言葉の語尾は、雨の音に呑まれて消えてしまう程あやふやで。私は隊長の顔を見ることができなかった。きっと怒られるに決まっている。このような噂は、体裁にも関わってくるだろう。私のこのような行動が、隊長の評価を大きく変えてしまうことになる。私は傘の柄をぎゅっと握った。

「そうか。……あまり気に留めぬことだ。」

「えっ、怒らないんですか……?」

「……何故彩蓮を叱る必要がある。」

傘を持ち上げ、隊長の方を見た。隊長は眉間にしわを寄せてはいるものの、私を責めている訳ではなさそうだった。安心のあまり、瞼の奥がじんわりと濡れた。

「私の不注意のせいで、このようなことになってしまって……」

「そのようなことで騒ぎ立てるような低俗な輩は好まぬ。」

「そう、ですよね……。」

どうやらこの件に関しては、隊長にとって取るに足りないことだったらしい。確かにこれは、恋愛話に飢えた松本副隊長たちの勝手な解釈によって生まれたねつ造の話である。彼女たちがどう思おうと、隊長に奥様がいらっしゃることも、私が隊長に対して尊敬の念以上のものを抱いていないことも、揺るぎ無い事実なのである。私たちは今まで通り、上司と部下としての関係を続けていれば良いのだ。私は一気に気が楽になった。

そうだ、この際に隊長に奥様のことをお伺いしてみようか。あまり込み入ったことを訊くのは良くないけれど、何故その存在を公にしていないのかぐらいなら訊いても失礼にならないだろう。そう思い口を開こうとした時。視界の隅で、可憐な花がちらりと揺れた。私の視線も話題も、道端に咲いたその花に奪われてしまった。

「あっ、桔梗!」

突然の私の大声に、隊長は足を止めた。私が思わず桔梗に駆け寄ると、隊長が後からその花を覗き込んだ。

私は桔梗の花が大好きだった。毎年この季節になると咲き始める桔梗は、梅雨の時期唯一の楽しみと言っても過言ではなかった。何故好きなのかと問われれば、自分でもよくわからないのだけれど。流魂街にいる頃は婆様が桔梗の花をよく育てていたものだ。とても丈夫な花で、流魂街の土でも力強く育った。婆様は普通の色の桔梗ではなく、桃色のものを好んだ。……実はこの傘も、その庭で育てた桔梗の花で染めたものなのだ。
その頃は何ともなしに見ていたその花は、流魂街を離れて霊術院に身を移してからというもの、年を追うごとに自分の中では特別な花となっていった。一目見るだけで婆様を思い出し、何とも言えぬ懐かしい香りが心の中に広がるのだ。

桔梗の花をそっと撫でる。懐かしむように、愛でるように、そして、婆様を想って。今頃婆様の庭は、桔梗の花でいっぱいだろう。忙しさ故に顔を出すことができていないが、桔梗の花が咲いている間に会いに行こう。

「……桔梗の花に、思い入れでもあるのか。」

隊長の言葉に、はっとして顔を上げる。どうやら自分の世界に没頭していたらしい。あろうことか隊長を放置して桔梗の花に見とれていたとは。私は慌てて立ち上がった。

「はい、婆様が流魂街の家で沢山育てているんです!桃色のものを……」

「志貴殿が、桃色の桔梗を……か。」

「はい!……隊長、どうかされましたか?」

隊長の表情は、僅かな驚きを含んでいるように見えた。何かおかしなことを言ってしまっただろうか。不安になった私は、慌てて自分の言葉を思い返した。

「……彩蓮。桔梗の花は、好きか。」

「はい、大好きです!」

隊長の改まった言い方に少し違和感を感じつつも、私は大きく首を縦に振って答えた。私の答えに隊長は言葉を詰まらせたような反応を見せたが、その表情は僅かな綻びを見せた。

「……そうか。私も、好きだ。」

そう言った隊長は、とても嬉しそうな顔をしていた。隊長がこんな顔をするなんて。私は初めて見る隊長の表情に、不覚にもどきっとしてしまった。いけないいけない、この人は既婚者だ。
前々から隊長との共通点や接点の多さには驚かされていたが、好きな花まで被っていたとは。こうして一つ一つ共通の話題が増えるごとに、私は隊長にまた一歩近付くことができたような、そんな気になるのだ。

先ほどまで傘にのしかかっていた水の重みはなくなっていた。傘をそっと退ければ、雲の隙間から覗いた月のとても美しいこと。いつの間にか、雨は止んでいた。






――はい、大好きです!

そう言った彼女の目に、惑わされていたのかもしれない。それが私に向けられた一言ではないことぐらい、十分に理解していた。しかし、それがもし自分に向けられたものだとしたら。そんなことを一瞬でも考えてしまった自分が情けなかった。

――私も、好きだ。

その言葉に嘘はなかった。私は桔梗を好んでいるのだから。しかし、あの時の私がどのような気持ちでこの言葉を発したのか。思い出すだけで、私はその罪悪感から逃れることができなかった。

彩蓮は私の部下の一人にすぎない。そう心に誓ったというのに、彼女に気がある訳ではないというのに、あの時、ほんの一瞬でも彼女との未来を想像してしまった。それはきっと、桔梗を好きだと言った、彼女の言葉に揺るがされただけだ。断じて違う。断じて恋などではない。興味と恋心を取り違えるなど、私らしくもない。

それでも彼女と過ごす空間は心地よくて、ほんの少しだけ幸せで、温かかった。その余韻に少しでも浸っていたかった。私は助けを求めるように出しかけた緋真の写真を、そっと懐に戻した。今は少しだけ、ほんの少しだけ。彼女と、そして志貴殿との思い出に、ゆっくりと身を浸らせた。




(執筆)130307
(公開)130312