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ああもう、やっぱり今日は最悪だ。六番隊隊舎の玄関、この大雨の中を同僚たちときゃっきゃ言いながら帰宅している隊士の波の中、私は一人肩を落とした。

私の傘が、なくなっていた。昼休みまでは確かにそこにあった私の傘が、傘立てから忽然と姿を消していたのだ。大嫌いな雨の日を少しでも楽しく過ごせるようにと、婆様が一晩かけて作ってくれたお気に入りの傘だった。綺麗な桃色の傘で、私はここ数年間ずっとその傘を使い続けていた。

傘が無ければ寮には帰れない。この大雨の中を傘なしで強行突破するのは、流石に無理があるだろう。私にも友達というものが存在していれば、途中まで傘に入れてもらうということもできたのだろうけど、生憎私には六番隊の友達がいない。辛うじて入れてくれそうなのは理吉さんだが、姿が見当たらないので恐らくもう帰ってしまったのだろう。かといって、そこらへんを歩いている隊士を呼び止めて途中まで一緒に帰ってくれないかと頼むことなど断じてできない。

もしかしたら、隊舎に置き傘があるかもしれない。そう思った私は、玄関へ向かう人の波を逆流して執務室へと向かった。道行く隊士たちが楽しげに会話をしている。それすらも、今の私には皮肉にしか聞こえなかった。こんな大雨で、湿気もすごくて、傘を取られてこんなにも落ち込んでいる隊士がいるというのに、何故この人たちはこんなに楽しそうなんだろうか。理不尽な憤りを感じ、私の足取りは徐々に荒々しいものへの変わっていった。




「ごめんね、置き傘、さっき全部なくなっちゃったの……。」

「そう、ですか……」

仕事中に人に話しかけることすらも躊躇してしまう私が勇気を出して話しかけたのは、六番隊九席の銀美羽さん。というか、今隊舎に残っている中で、話しかけられそうな優しげなオーラを醸し出しているのが銀九席しかいなかったのである。

しかし、やっとのことで手に入れた情報がこれである。今まさに、男二人組が置き傘を二つ手にして執務室から出ようとしているところだった。友達がいるなら、一本の傘で仲良く相合傘でもして帰ってくれ。君たちが手にした傘のどちらかが私の手に渡れば、私は幸せになれるというのに。迷惑な隊士たちだ。と心の中で暴言を吐く。そんなこと、本人に直接言える訳がない。私は脱力の溜息にも近い声を漏らし、ふらふらとその場を去ろうとした。

「傘、忘れたの?」

「……昼まではあったんですけど、今見たらなくなっていて……」

「あら……どんな傘?」

「桃色の傘なんですけど……一応名前は持ち手の部分に掘ってあります。」

「うーん、心当たりはないなぁ。それは明日紛失届を出すとして、今日は他の人の傘に入れてもらったら?私が入れてあげたいのはやまやまなんだけど、お仕事もう少しかかりそうで……。」

「あっはい、他の人……友人に頼んでみます……」

いないはずの友人を作り上げ、私は愛想笑いを浮かべたまま九席に会釈をした。傘に入れてもらえるような友人はいません、などとはとても言えなかった。何にも動じていないような素振りで再び玄関へ向かい、誰もいないことを確認してから、私はその場に座り込んだ。

お気に入りの傘を、なくしてしまった。あんなに大事にしていたのに。今日傘無しで帰るということよりも、傘をなくしてしまったことが何よりも悲しかった。婆様は、私が嫌いな雨の中でも綺麗な色を見れるようにと、桃色のものを作ってくれた。その傘の柄には私の名前まで丁寧に掘ってくれて、掘った字までもがまるで手で書いたように美しい字体で、これには婆様の愛が沢山詰まっているんだなぁ、と思うたびに心が温かくなった。

きっと傘を忘れた隊士が、適当に残ってる傘をもらって帰ってしまおうという浅はかな考えで私の傘を選んでそのまま帰ってしまったのだろう。何故私の傘を選んだのか。何故他の、そこら辺の店で買ったような普通の傘を選んでくれなかったのか。私は頭の中で見えない犯人を作り上げ、その犯人に苛々をぶつけていた。

しかし、いつまでもこうもうじうじしてはいられない。明日も仕事である。早めに帰って明日に備えなければ。私は意を決して立ち上がった。今日はもう、走って帰ろう。全力で走れば五分もかからないはずだ。傘には名前が書いてある。名前の存在に気付いた犯人が、明日になったら傘立てにこっそり返してくれるかもしれない。そんなほんの少しの希望を胸に、私は大雨の中に一歩踏み出そうとした。

「彩蓮。」

短く呼ばれた私の名前に反応し、勢いよく振り返る。なぜかその声が、今日は酷く懐かしく感じられた。隊長の手には二本の傘が握られていた。一本は、いかにも高級そうな黒い傘。その傘よりもずっと短いもう一本の方は、私の目に良く馴染む、あの桃色の傘だった。

「あっ、その傘……!」

「これはお前のものだろう。」

「はいっ……、ずっと、探していて……」

私は隊長に駆け寄ると、彼の手から傘を受け取った。柄の部分に刻まれた自分の名前を確認し、私は大切に大切に、その傘を抱きしめた。

「ありがとうございます、あの、どうして隊長が?」

「先ほど私が身支度をしている際に、隊首室の窓から何者かによって投げ込まれていた。」

「え……窓?」

「柄の部分に彩蓮の名が刻まれていた故、こうして届けに来た。」

「そんな……一体誰が……」

私の心の中を一抹の不安が過る。もしかしたら、これがいじめというものなのだろうか。だが、もしいじめだとしたらわざわざ隊長のところに投げ込むことはせずにゴミ箱に捨てるなりバラバラに解体するなりされていそうである。だとしたら、何故、誰が、何のために。

「と、とにかく、ありがとうございました!」

「……それは、志貴殿が作られたものか。」

「はい!婆様に作っていただきました!」

「相変わらず、何事にも長けた方だ。」

以前と変わらず、隊長は自然に会話を続けてくれた。私はほっと胸を撫で下ろす。いつも通りの隊長だ。距離も何も感じさせない、いつもの隊長だ。隊長に婆様を褒められたことが嬉しくて、手に持った傘をぎゅっと握った。

「隊長は、今からお帰りですか?」

「ああ、そうだ。」

「……あ、玄関にいるってことは、そうですよね。」

一通り会話が終わったところで、私は自分の取るべき行動に迷いを感じた。この流れは、完全に一緒に帰る流れである。特別な理由もないのに隊長と肩を並べて帰るなど、ただの隊士の私としてはとても厚かましいことのように感じていた。今朝の会話を聞かれていたとなると、隊長としてもこの状況はあまり好ましくないものだろう。帰宅時に松本副隊長にでも出くわせば、大変なことになる。

しかし、ここでいつまでも隊長と立ち話をしているというのも迷惑な話だろう。私はどうしようかと迷いながらも傘を開いた。すると、開いた傘の中からはらりと一枚の紙が落ちた。身に覚えのない紙の存在に疑問を抱きつつも、私はそれを拾い上げた。

“帰り道デート、頑張ってね! by乱菊”

先ほどからちらついていた彼女への疑念が、確信へと変わった瞬間だった。この傘を傘立てから盗んだのも、隊首室に放り込んだのも、隊長と一緒に帰らせようとしていた彼女の策略だったらしい。私は即座にその紙をクシャクシャに握りつぶした。体の底から、ふつふつと湧きあがる怒りにも似た感情。この数十分間、私がどれだけの思いをしていたか彼女にはわからないだろう。私は完全に松本副隊長のおもちゃと化しているのだろうか。

「彩蓮。」

「……。」

「彩蓮、何を呆けている。」

「あっ、はい、なんでしょう!」

いつの間にか私の隣に立っていた隊長は、既に傘を開いていた。帰るのには万全の体勢である。

「帰るぞ。」

どうやら隊長は、私と一緒に帰る気満々らしい。松本副隊長の策略にまんまとはまってしまって悔しいような、隊長と少しでも長く居られて嬉しいような、少し緊張するような。そんなないまぜの感情が、妙に心地よく感じてしまう。

ぎこちなく踏み出した私の一歩に合わせ、隊長が狭めた歩幅が妙にくすぐったくて、嬉しい。踏み込んだ先の足が、元気よく水たまりを弾いた。




(執筆)130307
(公開)130311