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奥様にも、宜しくお伝え願います。……彩蓮の普段通りの、動揺も何も感じさせぬような声色、さらりとした社交辞令の言葉。彩蓮によって閉められた扉から、暫くの間目が離せなかった。私は心のどこかで、この扉が再び彼女によって開かれることを期待していたのかもしれない。

数十秒の間を開けて、私は深い溜息をついた。私は、何を考えているのだ。私は一体、彩蓮に何を求めているのだろうか。

彩蓮京葭。彼女は今期の新米隊士の一人にすぎない。新米隊士の教育とは、彼らの実力を見ぬき、それなりの仕事を与え、必要とあらば誉め、叱り、それは分け隔てなく皆に行われるべきものだ。そのような事、隊長になってからずっと数えきれないほどに繰り返してきたことだ。だというのに。

彼女は新米隊士の一人に他ならなかった。いや、今でも他ならないはずだ。彼女は霊術院をトップクラスで卒業したにも関わらず居眠りや遅刻が多い若干の問題児ではあるが、その力は席官レベルと言われている。その実力は、行木との手合せを見た時から見抜くことはできていた。そして彼女は、字が上手かった。彼女は私が尊敬してやまない書道家、そして元六番隊三席の彩蓮志貴の孫だった。血は繋がっていないとはいえ、幼い頃から共に暮らし、共に字を書き、共に腕を磨いたのだろう。彼女の字は、志貴殿の字によく似ていた。

そう、彼女をただの新米隊士という一言で片付けてしまうには物足りないものがあった。彼女との接点が、あまりにも多すぎたのだ。新米隊士の中でも、否、六番隊の中でも、彼女は特別な存在だった。もっと気にかけてやりたい、もっと彼女を知りたい、彼女と話したい。そう思った。彼女と話すのは、それなりに楽しかった。もう数十年も会っていない志貴殿の話や近況を聞けたことはとても喜ばしいことで、彼女と話すと志貴殿と話しているような、そんな錯覚に陥った。

そんな彼女に、先日の写真を渡した。その際に、共に懐に入れていた緋真の写真を彩蓮に見られてしまったのだ。見られてまずいようなことは一切ないはずだった。

――とても綺麗な方ですね……!

そう言った彼女の声から、少したりとも動揺の色を感じることはなかった。私に妻がいることも、その妻のことも、彼女にとっては取るに足りない日常の雑学と化していたのだろう。彼女の興味は、その写真の中の女よりも、私の字の方に注がれていた。

私は彼女に、妻は亡くなったのだということを伝えるタイミングを逃してしまった。しかし、それを伝えたところでどうなるのか、と問われれば。その場の空気を重くするだけである。それに、今更彼女を追いかけて妻は亡くなったのだと伝えるにしても、彩蓮にとってはそのようなことを言われたところで「追いかけてきてわざわざいう程のことでは」という感想を持たれてしまうかもしれない。そう、言うなら彼女が隊首室を出る前にしておくべきだったのである。私は完全にタイミングを逃していた。

肝心なのは、その先だ。その事実を彩蓮に知らせたところで、私は彼女をどうしたいのだろうか。彼女は私を今現在も妻持ちの男だという認識で見ているのだろう。もし私が独身の身であるということを知ったところで、彼女はどうなるというのだろうか。
確かに彼女は特別だ。しかしそれは、一人の女性としてではない。一人の死神として、特別だと思っている。たったそれだけ、のはずだった。それなのに何故、私はこうも胸にわだかまりを抱えているのだろうか。

彩蓮を知れば知るほど、底知れぬ深みにはまっていく自分が怖かった。入隊初日から、彼女に目を付けていた。勿論、問題児を見張るという意味で、である。今期一番の問題児ということもあり、細心の注意をはらって監視を続けた。隙あらば叱りつけ、教育し直すことも必要だ。しかし彼女はいつだって真剣だった。書類の仕事も剣の稽古も、そして私との手合せの時でも。
彼女は他の誰よりもずっと真剣だった。強くなりたい、認められたい、他の誰よりも、ずっとずっと。いつだってそんな感情が彼女を取り巻いていた。

彼女の手合せの際、私はほんの少しだけ霊圧を上げて挑んだ。霊圧を限界まで上げれば、大抵の死神は正気を保っていることはできないだろう。席官クラスの攻撃を凌げるほどの霊圧で、彼女の斬魄刀の攻撃を受けた。
私はそっと、自分の斬魄刀の鞘を撫でた。そこには一筋の剣の跡がついていた。紛れもなく、彩蓮が付けたものである。どうやらあの時の私は、彼女の力を見縊っていたらしい。ほんの一瞬ではあるが、彼女の霊圧が私の霊圧に勝った瞬間があった。その証拠に、私の鞘には一筋の消えない傷が残った。私はその傷跡のことを、あえて彼女には話さなかった。私の斬魄刀の鞘に傷を付けた程度で満足してもらっては困る。彼女には、その斬魄刀の名を自力で知ることができるまでには強くなってほしかった。

そんな真剣さとは裏腹に、鍛錬以外での彼女は始終和やかだった。時々話す世間話や志貴殿の話、書道の話でも、彼女とは話の折が合った。彼女を追う私の視線はいつの間にか、以前とは違う感情を孕んでいた。
たった数ヶ月前に出会った、取るに足りない小娘である。何故こうも、彼女のことを気に留めてしまうのだろうか。

私は懐から一枚の写真を取り出す。最愛の、女性の写真を。

「緋真……」

複雑怪奇な色を孕んだ心を塗り替えるように、想い人の名を口にする。そうすれば私の心は、あっという間に緋真の一色で染まりきった。彼女との甘く儚い日々が、私の全身を満たしていった。きっと私が愛するのは、後にも先にも緋真、彼女一人だけである。私の世界を変えた、たった一人の女性なのだから。

一線を越えてしまう前に、この気持ちが恋心へと進化を遂げる前に、気付くことができた。ここで踏み止まろう。彩蓮は私の部下であり、それ以上でも、それ以下でもないのだから。

しかし、人への想いとは難しいものである。努力すればするほどに、自分の思惑とは逆さまの方向へとひた走っていくのだ。



(執筆)130304
(公開)130307