スロー・フロー・スタート | ナノ
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -

「隊長だってちゃんと心を持った死神だよ、大丈夫。取って食われやしないよ。」

理吉さんの後押しのお陰もあり、私は今、膨大な量の書類を抱えたまま隊首室の前にいる。剣で鍛えたこの体、腕力に自信はあるはずだった。しかし一週間分の書類である。私の腕は既に限界に達していた。

隊長と顔を合わせるのは果てしなく気まずい。しかし、いつまでもここでこうして棒のように立ち尽くしている訳にも行かない。さっさと提出して、さっさと理吉さんの元に帰ろう。そう思い直し、私は書類を抱えている手で、なんとか扉を二回ノックする。重さのためか、緊張のためか、その手が微妙に震えている。

「入れ。」

つい一週間前に聞いたあの声と同じだった。私は後ずさりしそうになる足をぐっと堪え、扉に手を掛けた。抱えた書類を落とさぬように扉を開けるのは、結構な大仕事だった。
扉の向こうには、相も変わらず無表情なままの隊長がいた。怖い、咄嗟にそう思って顔を下げそうになったが、慌てて前を向きなおした。そうだ、顔を上げて、前を見て。どんなことでも受け止めて、私は強くなろう。理吉さんが私を研修したということを誇れるような、立派な部下になろう。私は先ほど、そう心に誓ったのだ。

「彩蓮京葭です、研修用の書類を提出しに参りました。」

隊長は私の声に反応し、それまで机の上に向けていた視線をゆっくりと上にあげた。その先の、膨大な書類を抱えて、今にも埋もれそうな私とばっちり目が合う。怖い、だけど、大丈夫。そう自分に言い聞かせる。

「……その書類は、全て自分でやったのか。」

「は、はい、行木先輩のご指導の賜物でございます。」

つい口を滑らせて理吉さん、と言ってしまいそうになった。理吉さんという呼び方は、行木先輩と呼ぼうとしていたものを正された際にそう呼んでくれと頼まれたものだった。その方が親しみやすいだろうから、と。このような場所では、苗字に先輩と付ける方が好ましいだろう。

隊長の返事はない。まるで私を品定めでもするかのように、その目が私を上から下まで、下から上まで、舐め上げるように見た。私はその視線に居た堪れなくなり、書類を持ったまま隊長の机の前まで進み出た。

「あの、ここに置けば良いでしょうか……?」

「ああ、頼む。」

その机の一角にその書類をドンと置く。相当の重量を孕んだそれは、置いた拍子に若干の風圧を放つほどのものだった。その衝撃で周りの書類が僅かに舞い散り、私は慌ててそのばらばらになった紙をキャッチして元の場所に戻した。

隊長は私が置いた書類の山の頂上から一枚だけ紙を取った。その紙にさらっと目を通すと、何かを見つけたのだろうか。はっとした顔でさらに書類の束を取り、それに目を通し始めた。
何か重大なミスをしてしまったのだろうか。私の胸に、一気に不安が押し寄せてきた。あそこまで絶対的だと思っていた理吉さんが、一人の若い隊士に見えた瞬間だった。理吉さんが面倒を見てくれたからといって、彼だってまだまだ若い隊士の一人だ。私のミスを見逃していたっておかしくない。ここでミスをしていたら、きっと理吉さんも怒られてしまう。私が間違えたのに、私のために、きっと彼が怒られてしまう。彼にだけは迷惑を掛けたくなかった。出来る後輩だと思っていて欲しかった。

「あの……何か不備があれば、私が直しますので……」

「いや……ご苦労。下がって良い。」

私は一先ず胸を撫で下ろした。どうやら不備はなかったらしい。私は隊長に一礼し、くるりと向きを変えた。

「彩蓮。」

ふいに呼び止められ、私は足を止めた。これまで隊長に何度か苗字を呼ばれたことはあったが、それはどれも怒りや呆れといった負の感情の込められたものだった。今私を呼び止めた隊長の声色は、まるで世間話でもするような、何の感情も感じさせられないもので。私は少しだけ驚いた。

「はい、何でしょうか。」

「……彩蓮志貴、という名に心当たりはあるか。」

隊長の口から発せられたその名前は、聞きなれた私の耳に心地よく響いた。何故、隊長がその名前を。

「彩蓮志貴は、私を育ててくれた方です。」

「やはり、そうか。」

そう言った隊長は、懐かしむような目をした。私は入隊してはじめて、隊長にも心があるんだなと思った。今まで無機質な表情ばかりを目にしていた私にとって、隊長のその表情は酷く珍しいもののように見えたのだ。

「あの、婆様をご存じでなのですか?」

任務中に世間話など、この隊長は嫌うかもしれない。それでも私は、隊長と話を続けてみたい。そう思ったのだ。心を持った、一人の人としての隊長を、もっと知りたかった。彼を知ることで苦手を克服できるかもしれないと、そう思ったのだ。
意外にも隊長は話に乗り気なようだった。僅かに目を伏せ、昔を懐かしむようにぽつりぽつりと話し出した。

「彩蓮志貴、彼女とは、何度か書道展で言葉を交わしたことがある。」

「書道展で、ということは……隊長も書道をなされるのですか?」

「ああ、嗜む程度ではあるが。彼女は、今でも書道を?」

「い、いえ……今は病状の悪化で、あまり……」

「……そうか。」

そこで会話は途切れた。隊長は少しだけ残念そうな顔をした。隊長もきっと、彼女の書く字に魅了されていた者の一人なのだろう。私がかつて、今も、そうであるように。
書道展で会ったということは、恐らく隊長も相当の書道家なのだろう。婆様は名の知れた書道家の集まりによく参加していたらしいので、きっとそこで隊長とお会いしたに違いない。意外にも隊長と自分の共通点を見つけた私は、少しだけ嬉しくなった。

「……隊長は、今でも書道を続けられているんですか?」

「ああ。書道教室を開いている。」

「書道教室……師範、ということですか?」

「そうだ。」

朽木隊長、この人は一体何者なのだろうか。四大貴族の当主でありながらも護廷十三隊六番隊の隊長を務めており、さらには書道教室。彼のその多忙そうなスケジュールのどこに、そのような余裕があるというのだろうか。もはや同じ種類の生き物だと思うことすらも危ぶまれるような、そんな存在のように思えた。

「引き留めて悪かった。」

「あ、いえ、こちらこそ余計なことを……。」

もう少し世間話に花を咲かせていたかったが、そうもいかない。隊長も私も、まだ任務中である。私は再び軽く会釈をした。

今日はなんだか良い日だ。隊長のことを、少しだけ知れたような気がする。隊長の本質的な何かに、少しだけ触れることができたような気がする。なんとなく温かい気持ちのまま扉のノブに手を掛けたところで、隊長が口を開いた。

「……芯の通った字を書くな。」

「へ?」

「お前の字は、志貴殿の字に良く似ている。」

そう言った隊長の目は、私の書類に落とされていてよく見えなかった。だけど、私にはなんとなくわかった。私の字を見る、隊長の目がどんな感情を宿しているのかを。

「あ、ありがとうございます、失礼致します!」

本日何度目かわからない深い会釈をして、私は漸く隊首室を後にした。逃げるようにして廊下に飛び出し、自分の右手を深く握りこんだ。
隊長に、認めてもらえた。仕事っぷりを褒められた訳ではないが、私という人間の一部を、認めて貰えた。私にはそれがたまらなく嬉しかったのだ。

隊長への恐怖が少しだけなくなった私の胸に残ったのは、そこにあるのかないのかわからない程の、焦がれるような気持ちだった。そして私は気が付く。畏怖の念と憧憬の念は、限りなく似ているのだということに。



130220