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 人の劣等感だとか、黒い感情を掻き立てる人間がいる。それは単純に相性の問題なのだけれど、そういう、絶対的に合わない人間がいる。
 そしてわたしは、目の前の男に猛烈な劣等感を抱いている。

 小さな世界で生きてきた。幼い頃から積み上げたものがあった訳でもない。ただ、わたしは少なからず才能に恵まれていた。音楽が好きで、好きで、愛していた。好きなものを、好きなことを形にしたくて、わたしは作曲を始めた。DTMソフトを使いこなすまで時間はかかったけれど、慣れてしまえばどうということはなかった。インターネットへわたしの気持ちを乗せる。それが評価されて、次第に仕事になっていった。
 同じ頃、同じような存在が現れた。それが、今、目の前にいる男だ。
 彼はアイドルをしながらも、作曲に於いても評価されている。天は二物を与えるとはよく言ったもので、彼は多くのものを持っていた。

 わたしには、作曲しかなかった。

 彼とは何度か表彰式で顔を合わせる機会があった。彼はいつだって天真爛漫で、破天荒で、多くの才能のために何かを無くしたような男だった。
 わたしはこういう人間を知っている。
 何かを無くした人間というのは、本当に強い。才能がその分秀でているのだから、仕方ないのだけれど。

 ただ、そういった人間は、ちょっとだけ才能に恵まれた人間にとっては地雷に近い。ただひたすら神経を逆撫でされる、劣等感が膨らんでいくばかり。だからわたしは、彼に会うのが憂鬱で仕方なかった。
 日常でも彼の音楽を耳にすることは多かったし、自分の作った曲が少しでも彼の作品に勝てるように、必死で知恵を絞っていた。

 でも、どうしたって、彼には勝てない。勝てなかった。

 壇上にいるのは彼で、最後に壇上に呼ばれたのが彼だった。彼はさして興味もなさそうな顔で、しかもよく分からない着崩し方をした制服で、壇上に立っている。手渡されたトロフィーを雑に抱えて、目録は、既にだらしなく垂らした手の先に引っかかるように掴まれていた。
 カメラマンに声を掛けられて、彼はそちらを向いた。また興味なさそうな顔で、むしろ睨みつけるように、そちらに目線を遣っている。
 その態度が余計に、わたしの心を蝕んでいくというのに。

「おめでとうございます」

 壇上から降りて、わたしの前を通りかかった彼に、わたしは声を掛けた。努めて明るい声を出したけれど、少し棘が残っていたかもしれない。こちらを興味なさそうに見て、そして、笑った。

「ああ! ナマエ!」

 わたしのことを覚えていたことに、まず驚いた。彼の視線の中にわたしはいないと思っていたから。

「ナマエの曲、聞いたぞ! お前、なかなかやるなっ! その手に持ってるのはトロフィーか? お前も賞取ってたんだな! いや、そうか、そうだよな、あんなにいい曲だもんな!」

 彼はマシンガンのように話し始める。わたしが驚いて言葉を無くしているというのに、お構いなしに。彼はきらきらした、本当にアイドルらしい顔でわたしに話しかける。

「……ありがとうございます」

「なんだ? お前、謙虚なんだな! もっと誇ってもいいのに!」

 その言葉をそっくり返してやりたかった。あなたこそ、そう言おうとして、やめた。この手合いは、そんなこと言ったって伝わりはしないのだから。

「あれ? ナマエは、今日は制服じゃないんだな? いつも制服着てるだろ?」

「よく、覚えてましたね」

 全く視界に入っていなかったと思っていたのに。

「あぁぁあ、だって、同じ歳くらいで素直にすごいなって思えるのは、ナマエだけだぞ?」

 頭ががつんと殴られたようだった。ホテルの宴会場、重たいシャンデリアが明るく照らす世界が、より明るく見えるようだ。

「まあ、おれほどの天才はなかなかいないけどなっ」

 彼が、よく見かける笑い方で、大きな口を開けて笑っている。目の前で。

「そうですね」

「なんだ? そんな顔で笑うこともできるんだな、ナマエは」

 彼には勝てない。勝てる気もしない。悔しい気持ちばかりで作曲をするわたしよりも、人の力を認めて、そして努力する彼の方が、何よりも誰よりも才能に溢れている。

「わたし、笑ってますか?」

「気付いてないのか? こんな顔で笑ってるぞ」

 彼の笑顔は、優しくて、柔らかくて、少しはにかんでいるようだった。

「鏡がありませんから」

「今はおれが鏡だ」

 わはは、と笑って、彼はまた同じ顔をしてみせた。

「なんだか、かわいいですね」

「それはナマエがかわいいってことだろ?」

 彼のことを言ったつもりだったのに。妙に照れくさくて、恥ずかしくて、嬉しかった。

「月永さんのことだったんですけど」

「だって、おれは今、鏡だぞ?」

「そうでしたね」

 今度は意識して笑った。少しでも、彼にかわいいと思ってほしくて。

「もっと笑えばいいのに、今みたいに」

 トロフィーを抱えて、目録をその手に持って、彼は手を伸ばした。わたしの頬に触れて、口角を少し引っ張った。

「いつも賞貰ってるのに、いい曲書くのに、なんで仏頂面なんだろうってずっと気になってたんだぞ?」

 触れられている頬が熱い。

「笑えっ! 笑えっ! 笑う門には福来るって言うだろ?」

「ふゃい」

「ほら、笑えって」

「ふふ、ふふふ」

 わたしの頬は掴んだまま、彼が思い切り笑ってみせるものだから、何だかわからないけれど面白くなって笑った。
 彼の前でこんな風に笑うなんて思わなかった。

「うんうん、かわいいなっ、やっぱり!」

 彼の手が離れて、寂しくなった。まだ、頬には熱が残っていたけれど。

「……どうした?」

「何がですか?」

「う〜ん、なんだろう、いい目をしてるっていうか……あぁぁあ、どうしてここにぴったり嵌る言葉が見つからないんだ!」

「わたしにも分からないので、きっと、月永さんにも分からないんです」

「なるほどな! すごいな、ナマエ!」

 彼がまた笑って、きらきらした目でわたしを見た。その目の中にいるわたしは、自分でも見たことのない顔をしていた。
 当たり前だ。今、わたしにとって未知の感情が心を満たしているのだから。
 そして、わたしの知らない、けれど美しいメロディが、頭の中で鳴り止まない。

「霊感が湧いてきた! 早く、メモをとらないと!」

 彼は会場を駆け抜けて、乱暴に扉を開けると飛び出していく。それはいつもの授賞式で見慣れた光景で、また、思わず笑ってしまう。
 わたしも早くメモを取らなくては。このメロディが薄れてしまう前に。

 抱えていたトロフィーを見た。水晶の結晶みたいなそこに、わたしの顔が映り込んでいた。わたしとわたしの目が合う。これが本物の鏡。
 わたしはこの目を知っている。クラスの女の子が、淡い花のような話をするときにしている目と同じ。

 期待なんて微塵も持てないけれど、でも。彼の視界に入れているのならば。
 手にしたトロフィーを強く抱いた。水晶に刻まれた花の模様は、あの子たちが話していたことのように可憐で、奥ゆかしい。
 うつむいたその顔が、いつか上を向くように。いつか、手が届くように。
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