■ 私をはやくさがして

 冬眠から醒めたばかりの蛙は、冬眠していた事も思い出せずに変わってしまった世界を眠そうに歩き、観察するのだと聞いた。
 多分、今日から数えて八回くらいの夜を眠りに費やしてしまうその前の日。最後にガーデンスペースの地面に注意を傾けたのはそれくらいに前にそんな話を聞いたからだったと思う。

 最後に見たあの日には雑草すらも引き抜かれてむき出しになっている土をみて、そういえば校内SNSで《クロッカスの花をガーデンスペースに植えてくれる人募集中》みたいなアルバイトを募集していたな、と思い出していた筈だ。
 水も与えられず役立たずと言われているみたいにそこにただ置かれているだけの土はただ冬を満喫する冷たい風によって蓄えた水すらも奪われてしまっていて。
 言い知れぬ寂寞感に、私があの場所に花を植えるべきであるか悩み抜き、スマートホンとにらめっこしながら暫くその場で立ち尽くしていたのをよく覚えている。

 それが今日はどうだ。土色をしていた地面に、菫の花びらを摘み取って水に溶かしたみたいな色をした、見慣れない小さな花の蕾をつけた植物が植えてある。屈んで、その葉に触れてみる。造花ではない、本物の花だ。この季節に。

「おい」
 威嚇するような、低い声。
「無闇に触ってんじゃねーよ、萎れたらどうすんだ」
 その厳つい服装には至極不釣合いな、可愛らしいじょうろを携えてわたしの背後に立っていた男は、同じクラスの大神晃牙だった。整った綺麗な子顔には大きなマスクが装着されていて、季節の変わり目にはよく教室でくしゃみをしている大神をふと思い起こす。
そういえば、彼は花粉症だったのだった。咲いている花などひとつもないこの季節だというのに、念のためマスクをしているのだろうか。
 大神は私を、まるで野良猫を追い払うみたいな仕草でその場から退けると、私がつい先程まで踞んでいた場所に立って花に水をやり始める。地面に散らばっている、花を植える専用のスコップとわたしの顔を歪に映しこんでいる銀色のバケツ。これは。どこからどう見ても。

「・・・・この花」
「あ?んだよまだいたのかよ」
 大神はちらりと私を見て、直ぐに花に視線を戻す。
「ねえ、この花って、クロッカス?」
「んなもんいちいち覚えてねえに決まってんだろ。いいか、俺様はかわいいものが大っ嫌いなんだ!勘違いしてんじゃねぇぞ!」
 多分、私のブレザーのポケットから出ている、近頃女子高生の間で流行しているマスコットのキーホルダーを見て『可愛いもの』とか言ったのだろう。しかめっ面でわたしのポケットのあたりを一瞬だけ見たから分かってしまった。
「あぁ、うん。そうじゃなくて」
 私の会話に意識を向けてくれているのだろうか。先程まで気遣って花の根のあたりにかけていた水が、私に顔を向けているせいで手元が狂って花びらに直接浴びせてしまっている。
「このアルバイト、ほんとはわたしがやるか迷ってて」
「・・・んなこと言われたって、やっちまったもんはしょうがねぇだろ。恨むなら過去の自分でも恨め」
「ちゃんとひとの話、きいてよ」
 私は腕を伸ばし、大神の腕を引く。私の口調が何の予兆もなく強まったこともあって、大神は驚いてわたしを見つめ返してきた。

 じょうろに入っていた水が底をつきかけていて、水の出る勢いが弱まっていく。何もない土に水が零れて、私のスカートに土が跳ねた。
「わたしが言いたいのは恨むとかそんなんじゃなくて、お礼が言いたくて」
 長い睫に縁取られた瞼がぱちぱちと何度か瞬かれる。呆けていた顔を不快そうに顰蹙顔に作り変え、彼は舌打ちをする。
「・・・なんでテメーにお礼言われなきゃならねぇんだよ。俺はただ、ここだけ寂しいのが気になっただけで・・・・・・」
 やけに歯切れが悪い。一度私から目を反らし、ふらふらとあちこちにさ迷わせてから彼は意を決したように私に向き直り、マスクを下にずらして小さな声で言う。

「・・・・ここだけ何にもなくて、寂しそうだったんだよ」

 このひとは、いつかの私みたいなことを言う。






 見た目はうんと怖いくせに、大神は真面目なのか、いつだってだれよりも早く登校してきていた。勿論、それにだって理由があると発覚したし、遅刻ぎりぎりに登校してくる日のほうが圧倒的に多かったのだけれど。
 大神晃牙が行き場の無くした野良犬を学園に招きいれ、面倒を見ている事を知ったのと、彼が犬達を気遣うあまりに早い時間に学院に登校してくるのだと知ったのは同時だった。
 
「・・・ぁ、」
するりと零れたわたしのその声は外で降り始めた雨の音を聞き拾うよりも難しい事だというのに、聴覚が優れているせいか彼はふわふわした色素の薄い髪を揺らしながらわたしを振り返ってくる。違和感。
――この人は、こんなに優しそうな顔をする人だっただろうか。
 この人に興味をもって約一年、私が大神を着いていくうちに彼は初対面のあの日から別人のようによく話してくれる人になったのものだ。

「・・・・何だよ」
 常々周囲に近づき難い謎の威圧感を散らしている筈の声音が、今日はどこか覇気がない。私が無言で彼を凝視するものだから、大神は怪訝そうに私に睨みをきかせてきた。

「あ、ああ〜・・・・えっと。ごめん、なんでもない。おはよう」

 彼は返答代わりに軽く頷いただけで直ぐに窓の外へ目を向けてしまった。
 今日みたいに、大神が時折空を見上げ、落ち着かない様子で貧乏揺すりをしている日は決まって雨が降る。
彼が先程から真摯に視線を向けて監視している方向はガーデンテラスがある方向。彼の子分とも言える、犬達があそこらを縄張りとして近頃住み着いているから、大神は犬達が雨に濡れた小さな身体を寒さに震わせてやいないかと案じているのだ。
 私が机の上に置いたカバンの中から今日必要である教科書を机の中に引越しさせているうちに、降り始めた雨が強さを増していく。着席して机に突っ伏せて雨の音を聞きながら、私は大神がいつ立ち上がるのだろうかと待ち構えている。これじゃまるで私まで飼い主の外出を警戒している犬みたい。

「・・・・うん?まってなにそれ?」
 開けっ放しになっている彼のカバンの中に、私は確かに見た。
 私の携帯電話にのストラップとしてつけてもいる、私のお気に入りのキャラクターのマスコット。私に限定せずとも女子生徒であるのならば誰でも顔を綻ばせるもの。
 私は立ち上がり、駆け足で大神の机の前まで近寄っていく。私の足音を聞きつけて、大神はカバンを勢いよく閉じて背後に隠した。
「今女物のキーホルダーが見えました」
 カバンに手を伸ばす。
「し しらねぇよ。見間違いだろ」
 私の手を逃れて大神の手は私がいる逆側へカバンを移動させる。
「なんで隠すの」
 背後に回りこんでカバンを掴もうとすれば、今度は高い位置にカバンを上げられ、私の手は宙を掴む。『プレゼント?』と問いかけようとして私は己の顔から笑顔が消えるのを自覚する。
だって、それがもしも正解で。私意外のほかの女の子へ渡すものであったのなら。傷つくのは私だ。
 見えもしない相手宛のつまらない嫉妬心で素直に問いかけることも出来ず、私はむくれて見せる。大神のテーブルに手をついて、気まずそうにしている大神の顔をじっと覗き込み、私は揶揄するような口調で言った。
「隠すなんて疚しいことがあるとしか考えられないんだけど。とうとう目覚めた?」
「・・・・んなわけあるかよ。ぶん殴られてぇのか」
 言い終えるや否や、わたしの頭を引っぱたいてくる。視界がぐらりと揺れた。
「痛ったぁ!頭蓋骨折れたかも!暴力反対!」
「あぁ?これくらいで折れる筈がねぇだろーが」
 ぺちん。一応気は遣っているのか、先程よりは軽い力でもう一度頭を殴られる。
「〜〜っ・・・」
 頭を押さえておもむろに痛がって見せると、大神は自分の手のひらを見つめて私の顔を見比べてくる。力加減を誤ってしまったか不安になっているのだろう。その姿が可愛かったものだから、わたしは調子にのってもう少し痛がってみる事にする。
「・・・・お、おい・・?」
 本格的に彼が私を心配し始めたとき、ふと、顔を上げたその先で教室の前方にかけてある時計が実際の時間よりも5分程度遅れていることに気が付いた。
 無闇に生徒が触れないようにと高い位置に設置されたのだろうその時計は私が背伸びをして目一杯腕を伸ばした所で到底届くような距離ではない。
苦し紛れに軽く跳ねてみる。届かない。高い位置をずっと見上げていたせいで首が痛くなって、思い切りうつむいて首を撫でつけると、不意に私の背後に人の気配がする。思わず身構えると同時に強張ったわたしの肩に誰かの手が乗る。
「どけ」
「うぁっ!?」
 身体を小さくして姿勢を低くし、後ずさろうとするが背後は壁だ。勢いよく壁にぶつかったせいで背中を強打した。
 そんな私にびくりと肩を揺らして反応したのは大神で、私の代わりに時計を取ろうとしてくれたいたままの姿勢で硬直している。
「い、いきなりなんだよ・・・脅かすんじゃねぇよ」
「それこっちの台詞!!!」
 今更になって背中が痛んできて、涙目になる。私が苦労しても手に取る事の出来なかった時計を軽々とはずし、大神は私をちらちらと気にかけながら時計の裏側のねじを巻いて秒針を正常な位置に戻している。
 随分と高い位置にある顔を見上げ、ふと私は尋ねた。
「ねえ、大神くんって何センチ?」
「は?」
「だから。身長」
「んなもん知ってどうすんだよ」
「うーん。別になにも」
 私がゆっくり立ち上がるのを、大神は黙って目送している。いつの間にか真顔になっていた大神は、ただでさえ鋭い目を吊り上げ、不機嫌そうに吐き捨てる。
「・・・あぁそうかよ」
「え、なに?今のやりとりで怒るところあった?」
 ずいっと顔を近づけて顔を覗き込む。露骨に顔を反らし、迷惑だといわんばかりに私を遠ざけて時計を元ある位置に戻すと、今朝私が彼に感じた違和感をもう一度彼の中に覚える。視線の位置は落ち着かないし、そわそわと意味もなく髪や首の後ろに触れている。
「あー・・・おい、」
「うん?」
 私が目を合わせて一秒が経過する。
 直後、教室のドアが開かれて同じクラスの衣更真緒が入ってきた。
衣更とは別段仲が良いという訳ではなかったが、以前も大神が学院内に招き入れてしまった子犬を彼経由で姫宮に《犬を飼ってくれないか》とお願いしてもらった所、あっさりと許可が下りてから私は衣更に酷く懐いている。
 彼を利用しているつもりはないけれど、結果論から言えばわたしは彼を利用する為に仲良くしているようにも捉らえられるのかもしれない。
 もしもまた校内に住み着いた捨て犬の駆除が生徒会の仕事のひとつとして数えられるようになってしまえば衣更は一番に私に教えてくれるだろう。私も大神にその情報を提供できるように。大神の為に。

「衣更くん おはよう」
 私は大神との会話の途中だった事も忘れて衣更の前まで走っていって、頭に乗ってしまっている彼の頭の上を指先で軽く払う。
「髪濡れてる」
「平気だって、これくらい」
 首に巻かれたマフラーに手を掛けてマフラーを解きながら衣更はふと目線を上げて時計を見ると、「あれ、」と気のぬけそうな声を漏らす。
「・・昨日見たときは時間遅れてたのに、時計直ったのか?」
「うん。実は」
 私は私の後ろに立ったまま大人しくしている大神の制服を掴んで、衣更の前に突き出そうとする。
「そっか。ありがとな」
 どうやら私が直してくれたのだと勘違いしてしまったらしい衣更が目を細めて笑う。今までは女顔のクラスメイトとしか認識していなかった衣更が、一瞬、とてつもなく格好良く見えてしまって、私は言葉を失った。
「・・・・ミョウジ?」
 背後から大神が私の名を呼ぶ。どれだけの間固まっていたのか分からないが、私は大神のその低い声にはっとして、縋りつくみたいに大神の顔を見つめた。
 横から衣更の視線が私に向けられているのが分かる。それを意識してしまう。何故だか分からないが、衣更と目を合わせる事が出来なくて、私は大神の後ろに隠れた。
 私が背中にぴったりくっついて大神の背後で俯いていることに、大神は珍しく小言を漏らさない。
 話題をそらそうと思索していたら、大神が何かを言いたそうにしていた顔を思い出した。
「そういえば。さっき何いいかけたの」
「・・・・・、」
 私に対して何かを言おうという目的で開かれたはずの唇からは結局なんの言葉も与えられなかった。

代わりに彼はどこか諦めたように、困ったように、笑った。






「大神くんのこと、あの時、ほんとうは 」

 よく見知っている筈の、そこそこに親しい女が全くしらない女の顔で幸せそうに喋っている。
 昔の事を思い出していたせいで話を聞いていなかったとは言わない。

 近頃自分でない他の男と付き合ったのだと風の噂で聞いた。どうせ己にとっては興味のない話なのだろうと、彼はつまらなさそうにリモコンに手を伸ばす。テレビをつけて話し声が聞き取りにくくなっても彼女は文句のひとつも言わない。ほら。彼女にとっても所詮この程度の取るに足りない話なのだ。
 ラグの敷かれていない、固いフローリングに座って晃牙の愛犬であるレオンと戯れている彼女は晃牙に話を聞き流されている事にも気が付いていない。
晃牙はいよいよ彼女の声を聞かないようにしようと彼女からテレビに視線を転じる。入れたばかりで湯気の立っているコーヒーをスプーンでかき混ぜながら。

「本当に好きだった。大神くんのこと。」

 コーヒーの入ったカップを倒してしまったのは晃牙。手にかかったぬるま湯の温かさも感じないくらいに動揺していた。
テーブルに濃い色をした液体が流れていくのを見ている余裕はこれっぽっちもない。
「ちょっと!こぼれてる!ティッシュ!ティッシュどこ!?」
 晃牙は部屋を見回しながら机の上に置いていた手を慌てて高い位置に上げる。悲鳴のようなナマエの声に反応して、レオンが一度だけ吠えた。ティッシュをこれでもかというほどティッシュボックスから引き抜いてテーブルの上に乗せなている。
ふと、晃牙の知らないうちにだいぶ伸びた髪を耳に掛けながら何かに気が付いたように晃牙の背後を見る。
「――彼女できたの?」
 まるで昔の事みたいに笑いながら、過去のことのように晃牙を《好きだった》と言ったくせに、今度は嫉妬するみたいに突然不機嫌な声でナマエは晃牙に尋ねてくる。
「・・・・あぁ?んなもんいねぇよ」
 ナマエの視線を辿ると、そこには晃牙がナマエの為に購入した、けれども渡す事の出来なかったプレゼントが幾つかおいてある。丁寧包装されたそれは確かに女の存在を示唆しているようにも見える。
「ばっ、おま 勝手に人の部屋ジロジロみてんじゃねーよ!」
 それを手に取り、背後に隠す。
 ナマエはテーブルの清掃活動も中止して腕を組み、口を歪に引き結んで晃牙を睨んでくる。いつだかもこんなことをしたな、と、懐かしい気持ちになった。
そうだ。あの日も教室で彼女のために購入した、可愛らしい、晃牙の苦手なタイプのキーホルダーを渡すことが出来なかったのだ。

 ナマエが親しそうに衣更と会話しているのを見ていて。衣更を異性をして意識した直後、同性の友人にするみたいにくっつかれて。気落ちしてしまったから。
らしくないと笑われてしまうと思った、から。

 晃牙は手元にある小さな箱をに目を向ける。一年生の時に購入したもの。二年生になってから購入したもの。それから件のキーホルダー。そして彼女と疎遠になる前に購入したもの。
 どれも彼女に似合いそうだからと晃牙が購入したものだった。
「・・・チッ・・・マジ面倒くせぇ・・・・・・」
「面倒くさいってなに?私は真剣に話してるのに」
 ただでさえ芳しくない機嫌の悪さをよりいっそう悪化させて、ナマエは身を乗り出して顔を突き合わせてくる。
「あーあーうっせぇな・・ぎゃんぎゃん喚くな」
 わざとがましく耳を塞ぎながら、片手でそれらをナマエに投げつける。
「ちょっと!危ないじゃん ていうかこれ他の子宛に買ったものでしょ?こんな扱いして・・・」
「全部テメー宛に買ったやつだって見たら分かんだろうが・・・俺だってお前の事す、好きだったんだからよ。・・・分かったら黙って受け取りやがれ」
 かなわない恋だったのだと。認識した途端に上手に告げる事ができた。これでよかったのだ。あれらだってここでずっと持ち主もないまま、本来の使い道として使用されることもないまま埃をかぶっていくよりはずっと幸せなはずだ。
 後ろに手をついて、天井を見上げる。耳についたのは、女がすすり泣くような声。
 何気なく目線を下ろし、ナマエを見て、晃牙はぎょっとする。
「お おい・・・?なんで泣いて、」

「だって!そんな態度一回もとってくれなかった!」

 声を張り上げられる。
 ナマエの突然の大声に怯えたレオンが晃牙に擦り寄ってきて、晃牙はレオンを抱きしめてやる。俯かれた顔から涙が零れていくのが見えた。

「私、今でもすきなのに」
 
 晃牙は目を大きく開けて呆然とした。その後に、溜息を吐き出そうとして、喉を引き攣らせてしまった。嗚咽に似た声が零れたものだと思っていると本当に目頭が熱くなってきた。

 とりあえず。春になってあの花が咲いたら。一緒にその写真くらいは見てやろうと思う。


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