■ 鏡の国は記憶の中に消ゆ

わたしの見知った生徒会室は、もっと質素な印象を与えてくる空間だったはずなのに。こんな真っ赤な絨毯の存在も知らないし、こんなに立派な木製机の存在も、わたしは今まで知らなかった。アイドル科というものは学院に大きく貢献しているせいか、何もかもが華美な部品で構成されているように感じる。それはものだけでないと言うことは、この場所に案内されるまでにすれ違った学院の生徒の顔を見ただけでも察してしまうというものだ。アイドルを目指している人たちで構成されているせいか、綺麗な顔をしている人たちが多い。わたしの見知った人たちの顔がみんながみんな不細工だと言いたいわけではないけれど、ジャガイモに囲まれて生活していたはずなのに突然、石膏でできたヴィーナス像の置かれている美術館に召喚されたようなものだ。とにかく、わたしはこの空間にいるイレギュラーであるため、ひどく居心地が悪い。

「て、天祥院さん、こんにちは」
「やあ、ナマエちゃん。今日は来てくれてありがとう」

この学院の生徒会長である天祥院さんに呼ばれてしまったわたしは、この学校で生活する上で縁が一生なかっただろうアイドル科の生徒会室に足を踏み入れた。わたしはアイドル科との接点が全くない筈の普通科に所属している一般生徒なので、彼に声をかけられた理由も、こうしてこの場所に呼び出される理由もさっぱりだ。その上、彼にわたしの名前を気楽に呼ばれるような、そんな間柄でもなかったように思うのだけど。

正直今のわたしは、すぐにこの場から――この、男の子しかいないこの校舎から撤退したい気持ちでいっぱいなのだ。なにを隠そう、わたしは男の子というものが非常に苦手であった。小さい頃に、近所に住んでいた男の子から意地悪をされ続けたからという理由を話せば、誰にでも笑われてしまうのだけれど、わたしにとっては凄く深刻な問題だ。頭に昆虫を乗せられたせいで虫は今も苦手だし、プールに突き落とされて溺れたせいでお風呂は良いけれどそれ以上に広い水やお湯が張られている場所は怖くて近づきたくない。勿論、カナヅチだ。子どもという生き物は、無邪気に残酷なことをやるのだけれど、その仕打ちを一遍に受けてしまったことがトラウマとしてわたしの肉体に深く刻まれているせいで、どんなに優しげな男性であろうとも苦手だった。だから、目の前にいる物腰やわらかな美丈夫にさえ、恐怖心がむくむくと湧いてくる始末。「落ち着かないかい?」と目の前の椅子に優雅に腰掛けた天祥院さんは莞爾として笑う。途端に恥ずかしくなって、「…慣れていないので」と素直に言えば、「そんなに緊張しないで欲しいな。立ち話もそこそこに、その椅子に掛けてくれないかい。今お茶を出すから」と彼は鼻歌を歌いながら手際よく紅茶を準備する。その様子一つ一つさえも絵になるのだから、同じ人間として生まれついたはずなのに芋臭いわたしとは大違いだと、神様というものは不平等だと勝手にいるかもわからない神様を恨んだ。

「わたしは今日なんで呼ばれたんですか…」
「理由がないといけないかい?」
「ええ…」

「それに、ナマエちゃんも僕も、同じ年なんだしもっとフランクに接してくれないかな」と目の前でティーカップに口を付けてこちらの様子を伺う碧眼がわたしを余計に落ち着かせなくする。

「…すみません」

そう彼に謝罪すると、天祥院さんは破顔した。「別に謝って欲しいわけじゃないんだ、――ただ、また友達になりたいと思って」と笑う。相変わらず、穏やかに笑う天祥院さんの作法は美しいと思った。美しいという言葉を男性に使うのはどうかと思うかもしれないけれど、天祥院さんにはその言葉が一番しっくりと当てはまるようにわたしは思うのだ。緊張からやたら乾いて落ち着かない口の中を潤すためにティーカップに口をつけた。わたしの心拍数と、緊張から手汗がじわじわと滲み出す手のひらとは正反対の落ち着いた茶葉と、やさしい柑橘の匂いがふわっと漂った。口に広がる紅茶の味はこれまで、安い葉っぱの紅茶しか飲んだことのないわたしの知っている紅茶とは全く違う味がした。

「美味しい」
「お口に合ったようで嬉しいよ。」
「こんなに美味しい紅茶飲んだの、初めて」

そんなに褒められるとは思わなかったな、と天祥院さんは持っていたティーカップをソーサーの上に置いた。

「天祥院さんは凄いですね、紅茶も淹れられて、歌も歌えて踊れて、美しくて。絵本の世界に出てくる綺麗な王子様がそのまま出てきてしまったみたい。」
「はは、でも僕は君が思うほど、綺麗な人間じゃないよ」

僕の昔話を聞いてくれるかい、と天祥院さんはわたしに言うので、「ええ」と返した。彼は「ありがとう、じゃあ少し付き合ってくれるかな」と言って「僕がまだ物心付いたばかりの話なんだ」と話しはじめた。

「あの時はまだ僕も子どもで。…勿論、今も子どもなんだけど。凄く好きだった女の子がいたんだ」

そう、カップの中の紅茶を見つめる天祥院さんの目は、これまでよりも随分と柔らかいものであった。まるで、愛しい何かを見つめているように。きっと今の彼は、過去に愛した人のことを思い浮かべているのだろう。

「好きな子の気を引きたくて、たくさん意地悪をしてしまったんだ。そうするとやっぱりその子は泣いて、僕に『嫌い』って言ったんだ。当たり前の事なんだけど、嫌いって言われるたびに結構傷ついた癖に、謝りに行くのだけはできなかったんだ。それでもまた僕が一緒に遊んで欲しいと手を出したら、その子は困ったような顔をしてはいたけれど、その手を握り返してくれるし、僕の体調が良くない時は室内遊びをしようって言ってくれた子だったんだ。」
「…なんか今の天祥院さんからはあまり想像が出来ないです」
「だから言っただろう、僕はナマエちゃんが思う程綺麗な男じゃないよ」

誰もが一度は憧れるであろう童話の中の王子様に最も近いと思っていた彼はきっと、夢見る乙女の思い描く王子様そのものだと思っていたのだけれど、彼もまた、童話の中の物語のようにただ綺麗なだけでは無かったらしい。彼にもまた、無邪気な残酷さを持っていたのだと思うと、先ほどまでは童話の中にしかいないような、雲の上の存在だと思っていた彼がやたら人間らしく見えた。――初めから、わたしが一方的に彼に王子様らしさと言うわたしの中の理想を押し付けていただけなのだけれど。

「不思議なのはなんで彼女は僕のことを嫌いって言いながらも仲良くしてくれたのかは今も分からないんだ」

すこしだけ年をとったから大人になったはずなんだけど、それでもわからないことがあるからまだ成長が足りないってことかな、と彼は、いつの間にかすっかり空っぽになっていたわたしのティーカップに紅茶を注いだ。

天祥院さんは、「ナマエちゃんは、幼馴染とかいなかったの?」とわたしに問うた。

「居たには居たんですけど、あまりいい思い出が無くて」
「へえ。聞いても大丈夫かな?」
「ええ。過去のことなので。近所に住んでた男の子なんですけど、プールに突き落とされたり頭に虫乗せられたりしたんですよね。今となってはくだらないことのように感じますけど、あの時はやっぱり怖い気持ちの方が大きくて。」

だからやっぱりまだそれらも苦手だし、男の子もちょっと怖いんです。と言うと「…そうなんだ」とすこしだけ悲しそうに笑った。初めて会った人に遠慮することは無いと思っていたけれど、彼の表情をすこしだけ見ていたくなくて、わたしはカップの中に注がれた紅茶に目を落とした。紅茶の水面に揺蕩うわたしの対して可愛げのない顔と目があった気がした。

「謝ってくれることだって一度もなくて、とんでもない暴君だって思ってたんです。それでもまた遊ぼうって言われると何故か断れなくて一緒に遊んでたりしたんです。…天祥院さんとは逆の立場に居ながら、天祥院さんの疑問にお応え出来なくてすみません。今はもう、声は思い出せないし、彼の苗字が難しくて上手に呼べなかったから名前で呼ぶように命令されたっていう強烈な思い出くらいしか覚えてないので、彼が今なにをしているか、元気かどうかもさっぱりわからないんです。でも体が弱い子だったから、今は元気だと良いな、とは思います」

そう言って、わたしはティーカップに口をつけた。先ほど淹れてもらったばかりの紅茶がとっくに冷たくなってしまうくらいには随分しゃべりすぎていたらしい。温かい飲み物が冷めてしまった時の味が美味しいと感じたものが自身の口に合う飲み物だと言う逸話をふと、思い出した。お砂糖を入れていないはずなのに、渋さどころかほんのりと甘く感じるこの紅茶には、紅茶を淹れた人の気持ちでも溶けているのだろうか。

「へえ、ナマエちゃんは優しいんだね。幼馴染のことを今も心配しているなんて。」

だって相手はトラウマを作らせるくらい意地悪をしてきたんだろう、天祥院さんはわたしに問うた。先ほど一瞬見せた、彼の困ったような表情はいつの間にかなりを潜めていた。天祥院さんはわたしが生徒会室に足を踏み入れた時に見たような、莞爾とした笑みを浮かべていた。わたしにすこしだけ意地悪な問いかけをする天祥院さんは矢張り、わたしたちの思い描いていた彼の像とはどうやら結びつかないらしい。あの時のわたしの気持ちは、あの時のわたしに聞かなければ答えはわからない。けれど、すこしだけ年を経たわたしには、幼少の頃のわたしがどういう気持ちだったのかを推し量ることは容易い。

「きっと、わたしは彼のことが好きだったのだと思います」
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -