■ 今はイヴにさよなら

薫は、一通り周囲を見渡したあと、不思議そうに首を傾げた。アイドル科だけとは言えそれなりの人数でごった返しているものの、男子生徒が九割九分を占める女子生徒の制服はそれなりに目立つものだ。にも関わらず、その姿は今は一人しか見当たらない。
今日のような日に彼女がいないとは考えにくいし、そもそも式の開始前にはその姿を見かけたので、今見当たらないのは少々おかしなことだと思った。
今日のような日――卒業式には。多くの後輩が先輩との別れを惜しんで泣いていたり、卒業を祝う言葉をかけていたり。かく言う薫も、自身のユニットの後輩から祝いの言葉やら何やらをかけられたし、転校生のうちの一人からも祝いの言葉をもらった。その鼻が少し赤く、また声が潤んでいたので泣いたか、泣くのをこらえているのか――まあ、どちらか。常ならばその隣にもう1人のプロデューサーがいるはずなのだが、その姿が見えなくて。探しても見当たらないので、おそらく今は別の場所にいるのだろう。

「ねえあんずちゃん、ナマエちゃん見なかった?」
「ナマエちゃんですか?えっと……式が終わってからは、見てないですけど……」
「そっか。ありがとね」

式が行われていた講堂前を離れて、校舎内に入る。さほど思い入れのない学生生活を過ごしてきたものの、この1年――いや、半年程度は、割と楽しんでいた自覚がある。アイドルになろうと本気で思い出したのは果たしていつ頃からか。思い出すのは少し恥ずかしい気もするのだけれど。まあ、それなりに多く思い出もできた。だからだろうか、もう明日からこの校舎に登校することもないのだと思うとどこか感慨深いものがある。
ナマエのクラスの教室を除いてみてもその姿は見つからず、レッスンルーム等にもその姿はない。校舎内にはいないのかと思いながら踵を返そうとしたところで、ふと思い立つ。まだ行っていないところがあるのだ。
薫もよく足を踏み入れていた場所、屋上だ。ナマエが出入りしていたという記憶もある。両手で数え切れない程度に、そこで会話したこともあるのだ。なぜ真っ先にそこが思い浮かばなかったのか、自分でも不思議になるくらいだ。そこだけ見たら戻ろう、と爪先を通い慣れた屋上に向けて歩き出す。
そして到着した屋上に設置されているベンチに、その姿はあった。
小さな体をさらに小さくして。膝を抱え、抱えた膝に顔をうずめて丸まっている。

「ナマエちゃん」

呼びかけると、ナマエの方が震えた。しかし顔を上げることはない。「なんですか」と律儀にも答える声は震えている。泣いているのだろう、思いつつも指摘はせず、薫はナマエの横に座った。

「俺、もう今日で卒業だよ。校舎の中とか歩き回ってたけどさ。真面目にやってたのなんてここ半年くらいなのに、結構感慨深いもんだよね」

会話、という体ではなかった。なんせ相槌さえないのだから、これはほとんど薫の独り言のようなものだ。しかし薫は気にした風でもなく、言葉を続ける。

「アイドルなんてどうでもよかったのにね。自分が本気でアイドルになろうと思うなんて、なんか変な感じだよ。前の俺が今の俺を見たら、相当驚くんじゃないかな。でもまあ、嫌な気持ちではないんだ」

薫がそう思えるようになったのは、少なからずナマエやあんずの影響があった。もちろんそれだけではないが。それでも女の子にしか興味のなかった自分が、男の後輩を可愛がってしまっているなんて相当意識の改革がなければ有り得ないことだったと思う。
一足先に本格的なアイドル活動をして、あの子達を待っていようとか。年上の同級生に、相棒だと認められて不覚にも喜んでしまったりだとか。きっと彼女たちがいなければそんな感情なんて知らないまま、なんとなく過ごしていたんだろうな、という確信がある。
とかく、ナマエには。

「あのね、ナマエちゃん」

伝えたいことがあった。本当はもう少し早くに、“身辺整理”をしていたあたりで伝えるつもりだったけれど。なんとなく言い出せないまま――言い出していいのかもわからないまま、卒業の日を迎えてしまった。
薫の真剣な声音で何かを察したのか、ナマエが薫のブレザーの裾を掴んで少し引っ張った。その先を口に出すことを咎めるように。

「……薫先輩は、私にとって、アイドルじゃなかったんです」

震えた声のまま、ナマエはそう言った。初耳だ。ナマエはずっと、アイドル科の生徒をいつだってアイドルとして扱ってきたから。

「元はといえば先輩のほうが、アイドルとしてじゃなくて1人の男のひととして接してきたのに、知らない間にアイドルに本気になって、私にも、そういう風に接するようになって……先輩は勝手です、ね」

耳に痛い話だ。自覚があるだけに、厄介だと思った。察しのいい子だから、気付いているかもしれないとは思っていたけれど。気付いていない可能性に賭けたかった。ナマエは薫に対してずっと、変わりない接し方をしているように思えたからだ。

「わかってたんです。私だけじゃなかった。あなたには、羽風薫という個人として接するひとがたくさんいた。私だって、あなたの言葉をぜんぶ本気にしてるわけじゃなかったです。私はあなたにとって、たくさんいる女の子のうちの1人で、もしそうじゃない、少し特別な何かだったとしても、夢ノ咲学院のプロデューサーの1人だった。絶対私だけのものにはならない、なってくれない枠組みにいたんだと思います」

そんなことはわかっていたのだとナマエは言う。依然として膝にうずまったままの顔はどんな表情をしているのか伺い知れない、けれどその声からしてきっと泣いているのだろうことはわかる。こんな演技ができるほど、ナマエは器用に生きられはしないと思うから。

「……そんなこと、ずっとわかってたのに。それでも私、あなたをアイドルとして見ることが、どうしてもできなかった」

ひく、としゃくり上げる声が聞こえてくる。
プロデューサーとしては、あまりよろしくないことだと薫は他人事のように思った。ただナマエがプロデューサーとして良くないのだと言うのなら――薫とて、アイドルとして良いとは言い切れなかった。
ナマエが言わんとしていることが、自分と同じなのであれば。

「ナマエちゃん」
「……」
「俺は確かに君を、特別な何かにしようとは思わなかったよ。そうしないように、結構自分でも気にしないようにしてた。もし……プロデューサーとして見られなかったとしても、少し仲の良い先輩と後輩程度で済ませるつもりだった」

つもり、だった。過去形だ。実際そうはできなかったのだから。

「……本当はね、もう少し、早くに言うつもりだったんだ。ナマエちゃんに考えてほしかったから。これから会う時間も減るだろうし――ああ、もちろん、会いに来ようとは思ってるけど。だけどそれでも、今までみたいに会いたいときに会うってことはできなくなっちゃうからさ。でも言えなかった。情けないけど、怖気づいたんだよ。返事を聞くのが怖くて。……だから今日まで、言えなかったんだけど……ずるくても何でも、言わなきゃ後悔すると思ったから」

今度は言葉を遮られることはなかったので、聞くつもりはあるのだろう。それだけで、十分だ。

「俺、ナマエちゃんが好きだよ。結構前から、好きだったんだ。身辺整理とか言って、今まで付き合ったりしてた女の子と話も付けた。もちろん、アイドルを本気でやろうって決めたからっていうのももちろんあるけど……ナマエちゃんに伝えようって思ったからっていうのも、理由の一つだよ」
「……せんぱい」
「うん」
「……いまさら言うのは、ずるい」
「うん、ごめんね」
「アイドルになるって、ちゃんと決めてるくせに。なんで言うんですか……私、すごく、すごく、うれしいのに。……私も、って、言えない」

震えている細い肩を抱き寄せると、ナマエは薫に凭れる体勢になった。そうしてようやく少しだけ見えた表情は、薫が予想したとおりの泣き顔。泣いてほしくはないなあ、と思うけれど。泣かせているのは自分だった。

「ナマエちゃんはきっと、まだたくさんのひとと出会うだろうね。プロデューサーなんてやってたら、当たり前だけど。まだ学生だし、新入生も入ってくる」
「薫先輩だって……」
「うん、まあ知り合いは増えると思うけど。でもアイドルだから、女の子関係は気をつけるし、知り合ってもそう仲良くはならないかな。……だから俺は、待っていたい」

ナマエの頬に手を当てて、顔を上げさせる。赤くなった目元や鼻は、それでも可愛らしさを損なっていない。そう見せているのは薫の目なのだけれど。
器用にもまつげに涙をくっつけたままこちらを見上げてくるナマエに、自分が今できる最大限に優しい笑顔を向ける。

「ナマエちゃんが、もし、……俺のことを好きでいてくれるなら。それまで、待っていたい」
「……それは、いつまで、ですか?」
「いつまでかな。……わからないけど。これからのことを保証なんてできないし、だけど俺はきっと、これからもナマエちゃんを好きでいるから。ナマエちゃんが卒業して、それからどのくらいになるかわからないけど、それでも俺のことを好きでいてくれたら……そのときに、今の返事をちょうだい」

縛り付けるようで申し訳ないとは思ったけれど。それでもナマエは小さく、だけれど確実に頷いたから。今はまだ、それでいい。
餞別代わりにキスをしたくちびるは、涙で濡れて塩辛かった。

「ナマエちゃん、またね」
「……は、い。せんぱい」
「はは、やっと笑ってくれた」

目の奥がつんとする。今度は自分が泣きそうだ。

「……俺ね、やっぱりナマエちゃんの笑顔が、大好きだったよ」

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